第十一話 満ち足りぬ日常へ
気づくと、見慣れた天井があった。
息をつき、ゆっくりと上体を起こす。
慌てて体を確かめるが、
半日歩き続けてずたぼろだったはずの足も、
薪仕事で傷だらけだった手も、きれいなままだ。
服にも体にも、異世界で過ごした痕跡は何ひとつ残っていない。
枕元を探し、反射的にスマホを掴む。
画面を見て、ほんの一瞬だけ考え込む。
日付は、見覚えのあるものだった。
だが、どこかしっくりこない。
それでも、念のために確かめてみる。
小さく、あの名前を口にする。
視線が、無意識に部屋を一周した。
……何もない。
体の内側が、すっと冷えていく。
――夢だったのか。
目を閉じると、唐突に光がよみがえる。
赤い光。
揺れる影。
乾いた木がはぜる音。
炎だ。
耳の奥で、ばちばちと何かが壊れる音が鳴り続ける。
叫び声は、なかった。
怒鳴り声も、泣き声も。
ただ、諦め切った沈黙だけが、重くそこにあった。
井戸のそばで立ち尽くす人影。
空の桶。
途中で止まった手。
「もう無理だ」
掠れた声が、遅れて胸に落ちる。
熱。
息ができないほどの熱。
顔に当たった、焼けつくような風。
一歩も近づけなかった。
助けに行けなかった。
腕を掴まれた感触が、まだ残っている。
強く、離さない手。
「入るな」
「死ぬぞ」
その言葉が、今も胸の奥に刺さったままだ。
そして――
倒れなかった、一枚。
燃える建物を背に、
意味もなく立ち続けていた、あのドミノ。
願っても、呼んでも、
何も起きなかった。
膝をついた感触。
地面に叩きつけた拳の痛み。
止めようもなく溢れた涙。
名前すら知らない。
顔も、ほとんど思い出せない人たち。
それでも、確かにそこにあった場所。
自分を受け入れてくれるかもしれなかった、選択肢。
燃え落ちていくのを、
見送るしかなかった。
考え続ける前に、体が先に動いていた。
このままここにいるのは、よくない気がした。
理由は分からない。
ただ、同じ場所に留まってはいけないと、
体の奥で何かが警告している。
このまま部屋に閉じこもる気にはなれず、
理由も分からないまま制服に着替え、家を出る。
家を出て、いつもの通学路を歩く。
歩きながら、何度も異世界のことが頭をよぎる。
前から来た自転車を避けて、
反射的に小さく会釈する。
そのまま、自然に歩き出す。
駅へ向かう人の流れに混じり、
改札を抜け、電車に乗る。
吊り革を掴んだ感触や、
流れてくるアナウンスの声が、
少しずつ意識を現実に引き戻していく。
気づけば、息は落ち着いていた。
校舎が見えたとき、
いつもの朝と大きな違いはないことに気づく。
教室に入り、窓際の一番後ろの席へ向かう。
前の席は、まだ空いていた。
数日ぶりの教室だった。
体調不良という理由で、休んでいたことになっている。
誰も、それ以上は聞いてこない。
それで十分だった。
机に突っ伏す。
いつもの教室、自分の席。
ひどく懐かしくて、目頭が熱くなる。
教室は、まだ静かだった。
誰も、こちらを気にしていない。
そのとき、前の席のクラスメイトが振り返った。
「よう、体調はもういいのか。なんか疲れてるけど」
軽く目のあたりをこすり、気のない返事を返す。
それでも相手は、気にした様子もなく話を続けた。
「昨日、何時まで起きてた?」
答える気にもなれず、肩をすくめる。
「まあいいや」
そう言って前を向きかけたあと、
欠伸を噛み殺すように口元を押さえた。
「俺も眠いわ。文化祭の後処理でさ」
一拍置いて、
思い出したように、続ける。
「そういえばさ、ドミノ、惜しかったよな。もうちょっとで全部倒れてたのに」
胸の奥に、言えなかった一言が刺さる。
あのときも、何も言えなかった。
倒れなかった、あの一枚のドミノが、
燃える建物と重なって、苦い記憶としてよみがえった。
だが、やつは気にした様子もなく、話を続けた。
「実はさ、作業終わった後に床に落ちてるドミノ見つけたんだよ」
胸の奥が、ひどく冷えた。
聞き間違いだと思いたかった。
だが、その言葉を聞いた瞬間、
僕の視線は反射的にポケットへ落ちていた。
違う。
出すな。
そう思ったときには、
もう遅かった。
一拍、遅れて。
指先が、あの一枚をつまみ上げていた。
それを見たやつは、一瞬だけ驚き、すぐに笑う。
「なんだ、お前もか。結構いたよ、記念に一枚取っとこうってやつ」
喉が鳴った。
何か言わなければと思う。
だが、言葉が順番を作らない。
違う。
そうじゃない。
どれも、口に出すには遅すぎた。
「まあいいって」
被せるように言われて、
話はそれで終わってしまう。
そのあとで聞いた話では、
打ち上げの席でもその話題が一度は持ち出されたらしい。
最初は驚く声もあったが、
「記念だし」「一枚くらいなら」と軽い言葉が重なり、
気づけば誰も深く気にしなくなっていた。
結局のところ、
「まあ、やるよな」という空気に落ち着いたのだという。
設計したクラスメイトは、
「ちゃんと計算して配置してたんだ。みんなが勝手に減らしたら、失敗するに決まってるだろ」
と、少し強い口調で言った。
だが、すぐに声が返ってくる。
「でも、それならもっと途中で止まらなきゃおかしくない?」
「だよな。一番最後で止まるのは、さすがに変だろ」
事実を突きつけられ、設計したクラスメイトは黙るしかなかった。
全部使い切ろうとして、少し窮屈になっていた部分があったことを、
自分でも、完全には否定できなかったのだろう。
「そもそも、詰め込みすぎだったんじゃね?」
その一言で、場の空気がふっと緩んだ。
「残念だったけど、惜しかったじゃん」
「そうそう。来年もやろうぜ。次は絶対成功させるんだ」
「……今度は勝手に減らすのは、なしだぞ」
笑い混じりの声が上がり、
話題は少しずつ別のことへ流れていった。
「だからさ、気にせず持っとけよ」
そう言われ、
もやもやした思いを押し込むように、ドミノをしまう。
自分が抱えていた後悔も、苦悩も、
世界から見れば取るに足らないものだった。
だがそれは、自分だけが特別に間違っていたわけではない、
ということでもあった。
「次は、ちゃんとやろうな」
何気ない一言に、小さくうなずく。
日常は、何も変わらない。
異世界の証拠も、奇跡の痕跡も残っていない。
あの孤児院の人たちは、どうなったのか。
あの火事は、何だったのか。
その後、何が起きたのか。
わかることは何もない。
だが、できることもない。
あの夜と、同じように。
それでも僕は、
満ち足りぬ日常へと、確かに一歩踏み出していた。
教室の後ろに置かれた花瓶の花が、今日も静かにそこにあった。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
11話は、何も解決しない話でした。
日常は戻りますが、答えは与えられません。
次話が、最終話になります。




