26✦七年前✧「野良猫のようなメイド」(1)
(教育長アデリーナの思い出)
あのシアナがメイド長になってから二年。
退職するメイドが目に見えて減った。
それまでは、お嬢様付きメイドは一年も続けば良い方で、三日で逃げ出す者も珍しくなかった。
ひと月のうちに、メイドの半分が入れ替わる──そんなこともざらにあったのだ。
「お嬢様があの子を連れてきたときには、本当に驚いたものでしたが……」
今でも、あの朝のことは鮮やかに思い出せる。
当時十四歳だったお嬢様が、散歩の途中で突然──あの子を拾ってきたのだ。
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早朝から、お屋敷の前では、すでにちょっとした騒動になっていた。
従者は眠りこけた浮浪児を背負わされて辟易しており、門番は身元もわからない汚い子どもなど入れられぬと立ちはだかっている。
「お嬢様!やたら野良猫を拾ってくるのまでは黙認いたしましたが、これは人にございます!簡単に拾って良いものではありません!」
副執事長のエヴァルス様は、頭を抱えていた。
「なんでよ!?ちょっと人が増えるくらい、いいじゃない!部屋だって無駄に余ってるんだし!」
「浮浪児でしたら、教会に連れてゆきましょう。あそこなら孤児院も兼ねており、こういった子どもたちに、毎日のパンとベッドを……」
当時のお嬢様付きメイド長がそう言った瞬間、その子──シアナは、突然目を開き、従者の背中から脱兎のごとく逃げようとした。
「あっ逃げたわよ!?」
「こいつ、狸寝入りしてたのか!?」
お嬢様や従者が慌ててシアナを追いかけるも、恐ろしく足が速い。門はすでに閉じた後で屋敷の外には出られないが、中庭や裏庭を縦横無尽に駆け回り、庭師もメイドも総動員される大騒ぎとなった。
シアナはおそらく風属性なのだろう。螺術で土を舞い上げ、小石を操り、庭石を割って追っ手を翻弄していた。
風螺術で石を割るなど──尋常ではない螺力だ。
「野良猫だって、ここまで厄介じゃないわよ!」
メイドの一人が叫んだのを覚えている。
やがて、開いていた窓から屋敷内へ入り込み、総執事長までが駆り出される始末。
最終的に、二階のお嬢様の部屋に続くバルコニーで、とうとう行き止まりとなった。
私たちがようやく追いついたとき、シアナはバルコニーの柵を乗り越えようとしていた──その瞬間。
「わかるわ。教会に行きたくないのね?──行けない事情があるのね?」
お嬢様はそう言って、シアナに手を伸ばした。
シアナは柵の上に片膝を立てて座ったまま、一言も発しない。ただ、お嬢様を見つめ──やがて、お嬢様に向かって手を伸ばした。
……一瞬だったが、不思議な光景だった。
スティラお嬢様は、お顔の痣こそ目立つものの、天性の美貌をお持ちで、さらに恵まれた高貴な環境が、彼女の艶やかな金髪の一筋から、よく手入れされた靴先まで、一部の隙もなく輝かせていた。
対してシアナは、どう見ても薄汚れた浮浪児。
手入れとは無縁の薄灰色の髪は乱れ、汚れた服はところどころ破れており、手足は骨ばって傷だらけ。その中で、夜空のような瞳だけが印象的に光っていた。
見た目は対照的な二人の少女が、まっすぐ互いを見つめ、手を伸ばし合っている。
まるで、見えない何かに導かれているかのように──。
スティラお嬢様の後ろにいた我々は、シアナを取り押さえることも忘れ、その光景にしばし見入ってしまった。
その刹那、シアナはお嬢様に向かってさらに手を伸ばし──
バランスを崩して、柵の上から中庭の植え込みへと落ちた。
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「大丈夫、気を失っているだけです。頭も打っていなさそうだし、落ちたことによる怪我はないですね。植え込みの上なのが幸いしたのでしょう」
お屋敷付きの医術師は、落ちたきり動かないシアナをそう診断した。
「それより、飢餓と睡眠不足による衰弱が酷いので、とにかく休ませて、それから少しずつ栄養をとらせてください」
そこから先は、メイド数人がかりの奮闘だった。
気を失ったままの彼女を洗い、清潔な服を着せ、辞めたばかりのメイドの部屋に寝かせるまで──どれほど大変だったことか。
しかし目を覚ましたとき、なんとシアナはその大捕り物の顛末をまるで覚えていなかったのだ。
「……綺麗な人と、会った。……それしか、知らない」
お嬢様と出会った以降の記憶がないらしく、丸一日振り回された我々を心底脱力させた。
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──それから数日。
「こらシアナ! やめなさい!」
その日も叫び声が聞こえて、使用人食堂を覗くと、シアナがパンの大皿を抱え込んでいた。
「またですか……」
「アデリーナ様! この子、なんとかしてください!」
メイド長が泣きそうな顔で訴えてくる。
「シアナ。ここでは、パンは食事のたびにいただけます。多くとっておかなくても、飢えることはありませんよ」
これも、何度言ったことだろう。それでも、飢えに対する恐怖を彼女はなかなか克服できない。
なんとか皿からシアナを引きはがすと、ため息をつく。
お嬢様の強い要望により、シアナは正式にセラヴェル家のメイド見習いとなった。
しかし、初等学校にも通ったことがないらしく、一般常識や語彙に乏しい。
「シアナ、大皿には他の人のパンも含まれていることはわかりますね?独り占めはいけません」
「……はい」
無表情のまま口を動かすシアナを、あらためて見つめる。
外見こそ、苦労してメイド達が磨き上げただけあって、髪は白銀に近い輝きを取り戻し、彼女の瞳と同じ紺のリボンでまとめられ、垢と汚れにまみれた肌も綺麗になった。
地味ながら顔立ちも整っていて、綺麗な制服を着て黙っていれば、貴族令嬢付きメイドとして見栄えも悪くはない。
こけた頬や細い手足も、ここで食事をとっていれば、健康的になるだろう。
しかし──。
「アデリーナ様、シアナはやはり教会にひきとってもらった方が良いのでは。これでは私たちの仕事にも差し支えますわ」
「……もうしばらく様子を見ましょう。今、彼女の教育をしていますが、学習能力はかなり高いですから」
その場は、そう言ってメイド達を宥める。
実際彼女はたった数日で初等教育の二年分程を学んだが、いかんせんそれまでの境遇がひどすぎたのだろう。
七、八歳ならともかく、十四歳でこれでは……。
「この子を、セラヴェル家のメイドに鍛え上げるのは、おそらく無理でしょう」
総執事長セズネイ様にそう申し上げたのを覚えている。
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「シアナ!また髪がボサボサじゃないの!」
「……はい」
「はいじゃないわよ、何度言わせるの!」
お嬢様の部屋の前を通りかかると、今日もメイド長の小言が聞こえてくる。
ふと心配になって覗くと、ちょうどお嬢様が起き出してきたところだった。
「朝からうるさいわねえ、メイドの髪なんかどうだっていいわよ」
その足元に、シアナは突然這いつくばる。
「ちょっとシアナ!何してるの!?」
「シアナ、お嬢様から離れなさい!ちょっと誰か来て!またシアナがお嬢様にくっついて離れないわ!!」
この騒動も、だんだん朝恒例になりつつある。
シアナがセラヴェル家にきてから、半月がたとうとしていた。
拾ってくれた恩義を感じているのか、シアナは唯一、スティラお嬢様にだけは強く反応し、彼女なりの忠誠心を示すものの我々の眼には奇行にしか見えない。
私は眉間を指先で軽く押さえながら、お嬢様の部屋を離れた。
さすがに大皿を囲い込むようなことはしなくなったし、学習も猛スピードで進んでいる。
しかし、相変わらずシアナは表情もほとんど変わらず、声に抑揚もない。……おそらく、感情を出せない環境にいたのだろう。
それは痛ましいことだが、そのせいで、他のメイドたちからも次第に距離を置かれているようだ。
螺術についても、ここでは使えないという。
確かに初日に見せた、あの無秩序で強すぎる螺力を考えると、日常的な使用に向いていないのは察しが付く。
振舞いをいちいち叱られ孤立し、螺術も使えず……こんな窮屈な生活は、本人にとって本当に良いものなのか……。お嬢様の自己満足に過ぎないのではないか。
そんな風にも思い始めていた。
──しかし、その後のささやかな事件で、その考えが間違っていたことを、私は思い知ることとなる。




