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第82話 子の心親知らず

 通話越しの母親の呆れた声が耳に伝わり、かなたは背筋がゾッと凍える。


「え、な、な、なんです、か、私は何も……」


「ふざけないで。本当、どうしようもない……」


 かなたが何かを言おうとしても母親はまるで聞き耳を持たない。


「ま、まって、ください、も、もう少しで、ちゃんと話せる場所に移動でき――」


「週刊誌の連中が私の家を張っている。貴方、売ったでしょ、住所を」


「し、知らない、です! だって、私、お母さんの住んでる場所すら知らない……!」


 息も絶え絶えになりながらかなたはなんとか4階にたどり着く。そして極力人の眼に付かないよう女子トイレに入り、個室にこもった。


「貴方の学校には――本当は伝えたくないけれど、保護者として住所を伝えている。それを盗み見して、情報屋にでも売ったんでしょう」


「売って、売ってないです……!」


 母親からの完全な言いがかりに対し、かなたはただひたすら腰を曲げて言葉を連ねていく。

 

「どうだか。どうせ、妹憎しでやってるんでしょう。台無しにしたいんでしょう? 妹のライブツアーを」


「ち、ちが、違います……!」


 そもそもここ数週間はずっと勉強しっぱなしだった。SNSはおろか、スマホすら必要最小限の使用にとどめていた。

 週刊誌に売ると言っても、妹と何のつながりの証明もないのにどう売れと言うのか。

 そんな正当な訴えも、母親の耳には決して通らない。


 ハナから信用などしていないからだ。かなたのことを。


「この際、貴方が犯人かどうかなんて関係ないの。あの子がライブ前でナイーブになっているのに、これ以上隙を見せるような行動はやめなさい」


「だから、私は、なにも……」


「何? 口答えするの? 貴方が? 私に? なぜ?」


「っ……!」


 冷たい母親の声がかなたの鼓膜を突きさす。

 母親からの疑問形にはすべて肯定文で返さなければならない――幼いころから叩き込まされてきた”しつけ”に、かなたは苦し紛れに答える。


「ご、ごめんなさい……口答えして、ごめんなさい……」


 かなたの必死の許しに、母親は何も答えない。


「一応、確認するけれど……貴方が仮にあの子の情報を外に漏らしたことが判明したら、本当に戸籍を抜きますからね」


「は、はい……」


「本当なら貴方みたいなロクデナシを高校に通わせるお金がもったいないということを理解しなさい。いいわね」


「はい……」


 一方的に伝えたいことを伝えて満足したか、母親はそのまま通話を切ろうとする。


「あの、まって、待ってください!」


 かなたは前のめりになって母親を呼び止めた。


「……なに」


 これ以上貴方が何を言おうとするの、と呆れたような声を漏らしている。


「あの、あのね、あのっ……! す、少し前に、お、お母さんと電話して、それで、あの、や、約束したことがあって! あの、学年で30位になるっていう、目標をっ……!」


 かなたはそれだけは伝えたかった。

 私は、母親の期待に応えられるかもしれない娘だということを、どうしても言いたかった。

 最愛の、母親に。


「私ね、達成したの……! 21位だよ、21位……! この調子なら、率明大とか、もっと上の大学だって……!」


 ずっとずっと、苦しみながらも努力してきた。その成果を伝えて、聞きたかった。


 母親の、嬉しそうな声を。


 すべては、母親に褒められるために――


「……」


 母親からの返事は、ない。


 もしかしたら聞こえていないのではないかと思い、かなたは何度も何度も言おうとして、


「うるさい」


 母親はぴしゃりと言い放った。


「え、あ、あの……おかあ、さん……?」


 私、ちゃんと約束を守ったよ。宣言した通り、逃げないで、ちゃんと、目標を達成したよ?

 どうして、そんな、うるさい、って、言うの?


「約束って何? 覚えてないんだけれど」


 かなたの眼が見開く。


 なんで、なんで、なんで。


 嘘だ、ちゃんと、言った。言ったはずだ、宣言したはずだ。


 忘れている? どうして?


「で、それで……学年21位?」


「あ、あの、そ、そう! 中間考査から100位以上も上がったんだよ!」


「それはなに? これまで怠けていてごめんなさいって言いたいの?」

 

「……ち、ち、ちが……」


「そもそも、貴方の通う学校の中で21位を誇られても困ります。あの子が日本中、世界中でどれだけ注目されているか分かってるの? それと比べると貴方はなに? 学校で順位が高いからって、それでなんで私が貴方のことを褒めなければならないの? どういう理屈で私はあなたを褒めればいいの? 分からないから教えてほしいのだけれど」


「あ、え、えっと、そ、その……」


「いいから聞かせなさいと言っているの。聞く耳すら持てなくなったの? そもそも、学年21位だから何? あの子はどんな分野だって一位になろうとして努力してきたから今があるの。それであなたは21位になったから褒めてって……自分でも何を言っているのか分かってるの?」


「う……あ……」


 母親からの静かな罵声に、かなたは身を強張らせる。何も意味のある言葉を発することができない。


「はあ。貴方と話していると、本当に疲れる。いい? あの子はあなたと違って早生まれなの。それでも努力してここまでやってこれたの。あのね、普通に努力したらこれくらいできて当然なの。私たち夫婦の立派な血を受け継いだらそれくらいできて当然なの。それなのに貴方は遅生まれでしょう? それなのにこれだけしかできないのっておかしいと思わない? あの子と貴方は姉妹なのになんでここまで差があるのか、わかる? そう、貴方が何にも努力できない子だから。頑張ろうとしないから。怠けてばかりだから。それで今更勉強頑張っているアピールされても困ります。それするくらいなら幼いころからちゃんと努力しなさい」


 そして母親は、出来の悪い娘に嫌悪を抱くように、吐き捨てるように言い放った。


「育てて、損した」


 一方的に、通話が切れる。


 かなたは、そのままへたり込んだ。


 無力感が、体にのしかかる。


 個室トイレの蒸れた匂いが不快で、かなたはドアを開けた。うつろな目で、トイレの窓に寄りかかる。


「……あー」


 えいやっ。


 と身を投げる振りをして、かなたは自嘲する。


「そんな度胸もないくせに……」


 はは、はは、はは。


 かなたは堪えていた涙が、ぽた、ぽた、とトイレの床に落ちる。


「そっか、そうか……私、育てて、損かぁ……これまで、頑張って生きてきたのになぁ……」


 分かってる。妹と比べたら、私なんて出来損ないだ。歌も上手じゃないし、運動もできないし、そして、可愛くなんてない。

 妹が出来ることが、私は出来ない。そんな私を見て、母親が辟易とするのは当然だ。

 悪いのは、私だ。

 私なんだ。

 

「……ごめんなさい……」

 

 涙があふれてあふれて仕方がない。泣いたってどうにかなることじゃない。

 習い事を辞めさせられたときにだって、いくら泣いても意味なんてなかった。泣いて絵が上手になるなら泣きなさい。そうでないなら黙りなさい。そう言われ続けてきたから。

 泣いたって意味がないのに。それなのに泣いてしまう自分が、かなたは本当に、本当に嫌になる。


「うぇっ……えぇっ……ぐぅっ……」


 袖で拭っても涙が止まらない。いつまでべそべそと泣いているんだ、と自分を叱責すればするほどあふれ出してきてしまう。

 

 生まれた頃からずっと母親のことが好きだった。振り向いてほしかった。褒めてほしかった。

 それがもう、金輪際叶うことはないのだと悟り、かなたは悲しくてやりきれない。


 どうしてこんなことになってしまったのだろう。もっともっと、小さいころから努力すべきだったのに、どうしてそれができなかったのだろう。

 全部、私のせいだ。


 こんな、ちんちくりんな体で、大した長所もない自分が、憎くて、憎くて、仕方がなくて――


 カキーン!


 窓から、金属バットの大きな打球音が聞こえてきた。思わず、その音の先を見る。


「あ……」


 たった今快音を響き渡らせたのは、倫太郎だった。


 白球はグラウンドを超え、場外にまで達してしまった。周りの生徒たちは大盛り上がりでひときわ大きな歓声を上げている。打たれたピッチャーは参りましたとばかりに笑ってしまっていた。


 どこか恥ずかし気にダイヤモンドを回りながら、待ち構えていた味方チームの生徒たちに手荒い祝福を受ける。


 ――お前すげえな!

 ――本当にホームラン打ちやがった!

 ――マジで場外打ちやがった!

 ――お前もしかしてスポーツなんでもできるんじゃねえか!? 


 凄い凄い、と皆が倫太郎をほめたたえている。それに倫太郎は照れくさそうに微笑んでいる。


「……いいなぁ」

 

 倫太郎には、自分には持っていないものを持っている。そう、かなたは感じた。

 誰よりも大きな体で、ワンプレーだけで人を引き付けるような何かを持っている。

 それは妹にはない才覚だ。高校野球で甲子園の舞台に立って、例えば優勝投手にでもなれば、きっと妹を超えられるかもしれない。


 母親も、褒めてくれるだろう。さすがは私たちの自慢の子だ、と。


「いいなぁ……クソがぁ……」


 鼻をすすりながら、倫太郎を4階から見下ろす。欲しくてほしくてたまらない、母親が褒めてくれる可能性を秘める才能を持っている倫太郎のことが、心の底から羨ましい。

 嫉妬する。

 嫉妬で、倫太郎のことを、逆恨みしそうになる。そんな逆恨みする自分がもっともっと、嫌になる。消してしまいたくなる。


「……あ」


 皆から囲まれていた倫太郎が、ふと顔を上げたかと思えば――かなたの方を見た。


「やば」


 慌ててかなたは窓から離れる。

 4階からはきっと見えないだろうけれど……こんな情けない泣き顔を倫太郎に見られたくなくて、かなたは思わず顔を隠してしまった。


「……って、釘矢君が私の方なんて、見てないだろ。なんて自意識過剰なんだ、私は」


 自習中とは言え、教室から抜け出してしまっている状況だから、そろそろ戻らないといけない。

 泣き腫らした顔をどうにかこうにか、ごまかさないと……そう思いながらかなたは女子トイレの手洗い場の鏡で自分の顔を見る。


 なんてひどい顔なんだと、かなたは絶望した。


 可愛げもない、愛嬌もない、世界中にファンがいるような恵まれた容姿もない。


 何のとりえもない、親にも愛されない、醜い子。


「……教室に戻りたくない」


 じゃあこのままどうするっていうんだ、ずっとトイレのままこもっているつもりか。次も授業があるんだぞ。そう自分を叱責する。


「何もやりたくねえよ、ちくしょう……」


 だめだ、こんなトイレに居てばかりいると、臭いが体に染みついてしまう。かなたは泣き顔を何とかごまかしながら、女子トイレを出た。


 その先に――


「……え? は? な、なんで、君が……」


 さっきまでホームランを打っていたはずの、198センチの巨漢の男子――倫太郎が息も絶え絶えになりながら、女子トイレの前でかなたを待っていたのだ。


「す、鈴木さんっ……大丈夫ですかっ……!? な、何か、何かあったんですかっ……!」



 

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