第78話 恋
定期考査は2日間にわたって実施された。最後の科目である英語のテスト時間が、後1分で終わる。
教室では、空白をなんとか誤魔化すように知ってる英単語を最後まで書こうとする生徒や、定期考査が終われば夏休みだと既にソワソワしてしまっている生徒、また、ノー勉で貫き通した結果ひどい有様になり呆然と窓を見ながら黄昏る生徒など、様々な表情を見せていた。
その教室の中でかなたは、最後の最後まで集中力を切らさずに解答欄の見直しをしていた。誤字脱字や文法の間違いがないか目を皿のようにしながら探す。
「……」
これだけ頑張ったんだ、ちっちゃなミス程度で点数を損ないたくない。その気持ちで、最後の1秒まで全力を出し切ろうと一文字一文字に集中する。
残り30秒、20秒、10秒。
「……あ」
比較級が間違っている単語を見つけた。ケアレスミスを回答時間中に見つけられた快感に酔いしれながら、即座に消しゴムで消し、残り僅かな時間で書ききる。
キンコーン。
チャイムが鳴り、試験官の教師が手からペンを離すよう指示が入った。
名残惜しそうにペンを離す生徒や、最後の最後にケアレスミスが見つかって慌てて書き足そうとする生徒をしり目に、かなたは実に満足げにペンを机に置く。
「……ふぅ」
後ろの席から集められる解答用紙を束にし、前の席の生徒に手放した。これで定期考査が終了した。あとは採点を待つのみだ。
「終わったぁ……」
かなたは放心したような表情で教室の天井を見上げた。
全部、出し切れた。必死に勉強した3週間の成果は、出せた。
(わかんなかった問題とか、二日前までは覚えてたはずの単語とか……出来なかった問題の方しか思い出せないけど)
普段なら解けた問題のほうしか思い出せなかった。今は、解けなかった問題のことしか覚えていない。
(なんかそう考えると、出来なかったんじゃね? っていう不安がデカくなるけど……)
解けなかった問題を覚えているということは、それだけ解けなかった問題が”珍しい”からだ。ほとんど分からないテストで、唯一解けた問題のほうを覚えているのと同じこと。
(いやでもどうなんだろうなぁ……あー、くそ、テスト始まる前にあそこちゃんと見返してれば5点損しないですんだのになー……うわー考えるだけマイナス思考に陥っちまうー)
「おっつかれー! かなた!」
かなたのクラスメートの女子たちが、解放感に満ち溢れながら声をかけにきた。
「おー、おつかれー」
彼女たちの表情は実に晴れやかなものだったが、
「やばい途中テスト中に寝ちゃってた」「なんかできた様なできなかったような気がするんだけど、てかあの教師出すって言っておいた問題出さないの普通にクソじゃない?」「さっきあの子から聞いたんだけど大問3の問2の問題が出題ミスだって。だから英語みんな全員+3点だって」「マジじゃん最高じゃん」「残りの問題も全部そうであってくれー」
テスト自体は散々な結果だったようだ。
「かなたはどうだった? 成果出せた?」
「んー、まあ……出せるもんは出せたかな、という感じ」
「「「「おおおー!」」」
かなたのやり切ったと言わんばかりの表情に、彼女たちは素直に歓声を上げる。
「やったじゃん、かなた!」「すっごい頑張ってたもんね……」「昼休みとか私たちとご飯食べてる合間もずっと単語帳見てたし」「あのおかげで私もちょっとだけ英単語覚えられたよ」「それな」「いやー、かなたの頑張る姿見て私も頑張ろうっていう気持ちにはなったんだよね、うん」「でもあんたずっとゲームしてなかった?」「こんな時期に最新作を出してくるメーカーが悪い!」「すごい開き直るじゃん」「勉強しようという気持ちだけはあったよ!」「それでやってなかったら意味ないのよ」
「あっはは!」
そんないつも通りな会話を聞いていると、ようやく日常に戻ってきたという感じがした。
「で、かなた! 今からテストの打ち上げしにカラオケ行かない!?」「そうそう! 前かなたが歌ってたあの曲聞きたい! 気まぐれ乙女のロマンティカ、だっけ?」「それ! 歌って歌って―!」
「えーと、ごめん、誘ってくれて申し訳ないけど、今日はちょっと用事があってね……」
「なんでよー!」と頬を膨らました友達に肩を掴まれ体を左右にぶんぶんと振られながら、かなたは「ごめんねー」と苦笑しながら言う。
かなたには約束があった。
二日前の日曜日。帰り際に、かなたがふと零した言葉。
『そうだ、ねえ、釘矢君。あのさ、定期考査が終わったらさ……遊びに行こうぜぇ。もちろん、日本大橋な!』
そのかなたの言葉に、倫太郎は眼を輝かせて答えた。
『は、はい! もちろんです!』
そう。これまで好きなこと(オタク)を封じてきた。それを開放するにはやっぱり、同じオタクがいい。
◇◇◇
日本大橋駅に降り立ち、オタクショップが立ち並ぶ大通りを前にしてかなたは、腕をグーンと天高く上げ喜びを全開にした。
「いやー! 久しぶりー! 日本橋!!!」
その隣で倫太郎は感慨にふけりながら首肯する。
「思えば、毎週のように日本大橋来てましたから……こんなに間があくと、なんだか全部が新鮮に見えますね……」
「なー。てか、定期考査の解放感やばいんだけど。めっちゃそわそわしてる今!」
「あ、わかります……。用語集を片手にしてないと不安になってましたけど、今はもう、忘れちゃいます」
「ガチで頭いい奴は定期考査後も勉強するような奴なんだろうけど……まー今日くらいは遊んでもいいだろ、なぁ?」
「もちろんです!」
制服姿で放課後に男女二人が街に繰り出す。その光景だけ見れば、まるで仲良しのカップルのように見えたことだろう。それを意識してしまうと倫太郎は今にも顔を真っ赤にして慌てふためきそうだが、今は周りの目なんかよりも、
「よーし、じゃあ勉強で凝り固まった頭を全部オタクで埋め付くぞー!」
元気よく、普段通りの奔放な姿を見せるかなたと一緒に遊ぶことのほうに夢中になっていた。
まず二人が足を運んだのはアニメショップ。流行のアニメ作品の原作漫画やライトノベルがフィギュアやポスターと共に凛然と陳列されており、その作品を手に取りながら二人はあれ見た? これ見た? と和気あいあいとしながら語り合う。さらに倫太郎が特に好んでいるなろう作家の新作が出たとありワクワクしながら陳列棚に向かい、店舗限定の特典ポストカードがシュリンクされた特製仕様の本を手に取り頬を緩ませたり、かなたが「この漫画……いいねぇ……」と龍の娘(蒼髪の幼子キャラ)が冴えない社会人のおっさんになつかれるという漫画に目を引かれ、「こういうのでいいんだよ、こういうので」とうんうん頷きながらその漫画を手に取り、二人並んでレジで会計を済ます。
「いやぁー、このライトノベルすっごい面白いんですよ! 最強を夢見る冴えないおっさんがS級冒険者たちに鍛えられて本当に最強になっちゃうっていう本で、爽快感が良いですよ! 今度貸します!」
「そんなに推してくるなら読んでみようかねえ。こっちも面白そうよ、ブラック企業で疲弊するおっさん主人公が龍のロリ娘に見初められて同居して、龍の力で気に入らねえ上司とかをぶっ飛ばすっていうね!」
「……なんか、こう……この年齢でおっさん主人公に惹かれるのって……大丈夫なんですかね、枯れてたり、してないですかね……」
「それ言ったら世の中の娯楽作品って大人が主人公のほうが多くね? 別に私らの年齢で未成年の主人公じゃないと感情移入できないってわけでもなかろうて」「言われてみればそうかもしれないです……」
「でも青春スポーツ漫画とかはあんまり感情移入できないわ」
「え、そうなんですか?」
「なんか、若い子が人生をかけて甲子園とか目指すじゃん、そこでやられ役? って言っていいんかな、そういうモブっぽい高校の子が負けたりするのを数コマでさらっと流されて『おいおいおい! この子らがどれだけ真剣に高校生活をかけて人生をかけてやったと思ってんだい! そんなちょろっと流していいもんじゃないだろ!』ってなっちゃってそこから読めないわ」
「……」
「なんだいその顔は」
「……同い年でしたっけ」
「16だよ16歳! これでもぴちぴちな女子高生だっつーんだい!」
次はカードショップ。最近二人がハマってプレハブの屋上でプレイしているカードゲームであり、現在いわゆる”環境”と呼ばれるカードは、以前一緒に買ったストラクチャーデッキよりもはるかに強い。それゆえ、紳士協定としてあまりに強いカードは入れないこととしている。だが、足を踏み入れたカードショップは相場よりも比較的安い金額で(3積み確定の高額なカードたちが1枚しか入っていない型落ちではあるがそれでも非環境デッキを蹂躙するには十分なパワーを有した)環境デッキが取り揃えられており、2人は興味津々に眺める。
「これ買っちゃったら多分君のデッキ瞬殺できるけど……それするとつまんなくなるかなぁ。我々2人だけの界隈でワイワイやってたところに外来種放つようなことじゃん」「悩みどころですね……でも新しいの取り入れていかないと多分ゲートボール化するので」「ゲートボール化?」「あ、えっと、新しいカードを入れないで古いカードのみのレギュレーションっていう……。それはそれで面白いレギュレーションだと思うんですけど、それだけだとこう、言い方正しいか分からないですけど多様性が生まれてこないじゃないですか」「あー」「やっぱり新しいカード使わないとみたいなところあるじゃないですか。最先端のギミックを取り入れた強いカードでバシバシ戦うっていうのがまず軸としてあって、そこで『ちょっと縛ってやってみようか』っていう枝葉が生まれてくるみたいな」「確かに新しいカードでしばきあいたいもんなー」「そして、新しいカードも古いテーマを救済……じゃない、古いテーマとシナジーが良くって、そういう意味で最新のカードプールの方がむしろ多様性があるというか」「なんか私らが生まれる前の大昔のカードが今でも環境で戦えてるって聞くもんな」「なので実際、新しいカードバンバン取り入れた方が面白いと思います。禁止カードはどれだっていうレギュレーションも別に厳密に決めなくても俺と鈴木さんとの間で決めればいいだ替えの話ですし」「でも信じられんくらい複雑なギミック覚えんのダルすぎるという気持ちがある」「そういうのが続いちゃっていつまでも古いカードしか使ってないと本当に"老い"が来ますよ」「……こればかりは本当に枯れてきてるかもしれん」
とはいえ環境デッキの値段はそれなりに高い代物であったため、2人はひとまずストレージ(2人にとって比較的新しめで目新しいギミックだが一線級のカードではないため1枚10円で取引されている)で500円に収まる程度に選び、新しい風を2人だけの狭い界隈に沸き起こすこととした。
「よし、それじゃあ次は……」
実は、ここに行ってみたかったんだ、とかなたは倫太郎をとあるお店に誘った。
「「「おかえりなさいませ、お嬢様、ご主人様!」」」
メイド喫茶だ。内装は桃色を基調としたにぎやかなもので、キャストたちが身に纏うメイド服もかなたが好むロングスカートのクラシカルなタイプとは異なり太腿がまろびでるミニスカートで、胸元にハートマーク状の穴が開いているセクシーさにあふれた衣装だ。
「他店がどんな雰囲気かを調査するのも接客する上で参考になるからねー」とにこやかに笑いながら「初めてです、二名でお願いしまーす」と出迎えてくれたキャストに慣れたように答える。
「な、なるほど……」
倫太郎は最初こそ店の雰囲気に怯えていたが、いざかなたと二人きりで席に座ってしまうと後はいつも通りのオタクの会話に花を咲かせていた。先ほどカードショップで購入したカードを互いに見せ合いながらああだこうだと語り合っている。
「このカードの効果欄に書いてあること全部強そうに見えるのにwiki見ると実際そうでもないのバクだな」「やっぱり誘発受けが弱いっていうのがネックになるんですかね、市販されてるスターターデッキも誘発結構入ってますし」「いくら弱いデッキでも環境デッキに刺さる誘発を最初の手札で握っていれば五分に持ち込めるのは多様性があると言うべきか、いくらなんでもゲームが誘発に依存しすぎじゃないかと言うべきか……」
注文してざっとキャストの衣装に目をやりながらかなたは語る。
「ああいうミニスカート的なメイド服って実際着れるのってすげえ勇気いるよなぁ。あのお姉ちゃんとか脚ほっっっっそ。あとガーターベルトがこうキュッと締まってピチッとしてるからより足の細さが際立つというか。コルセットもキュッと締めてるなぁ、それで苦しそうな姿見せないで軽やかに歩けるって相当頑張ってるぜ」「……」「なんだい釘矢君、そんなちょっと照れた顔して」「いや、あの……ほら、その、俺、男なので……まじまじとキャストさんを見るの、こう、ダメかなって……」「まあ流石にスケベおやじすぎるか」「でも、こういう時にキャストさんの服装とかを褒めるのってあんまりよくないんじゃないですかね……? あんまりよく分かってないですけど……」「まーそこらへんはグレーだわな。ハンバーガー屋さんで働いているわけえ子に『いつも頑張ってんね!』っ声かけるのは別にいいかもしれねえけど『いいケツしてんね!』は一発出禁だし」「線引きが分からないので、俺はおとなしくじっとしているわけです……」「グレーゾーンなところで自分が判断できないならちゃんと引けるの、かしこい」「へへへ……」「いやーしかし、メイド服も水色だったり桃色だったりと、カラバリ無限に溢れてんなー」「鈴木さんが着ている服は本当にクラシカルですよね」「うん。きっちりした服好きなんだよね実は。それに、肌出すの自信ねえし、こんな貧相な体でセクシーな服着ても、ねえ?」「……」「そこで照れるなよこっちまでちょっと恥ずかしくなるだろうがよ」「あの……鈴木さんの着ているメイド服がどれくらい似合っているのかって、今ここで語ってもいいですか……?」「やぁだ」「……じゃあもうメイド服で語ることなくなっちゃいますよ」「じゃあやんやがメイド服着るとしてどんな服が似合うかって話でもするか」「そこは鈴木さんとおそろいのメイド服、じゃだめなんですか? 2人で並んでポーズ撮るところが想像できます」「いや、やんやは美人型の顔してるから実際色っぽい服着てほしい」「でも10歳の女の子にあんな短いスカートに胸元が開いた服を着るのって道徳的にどうなんでしょうか」「それ言うたら女児アニメの魔法少女も同じような服じゃね? 幼稚園くらいの女の子とか魔法少女になりたい言うておもちゃ屋で売ってる衣装を着てたりするぞ」「論破されてしまった……」「ロリがセクシーなコスプレを着ることでしか得られないエロスがあるんだよな」「言ってること冷静に聞いたらやばい気がします」「いいじゃん別に世の中の皆様に公言するわけでもねえんだし、君と私だけの話なんだからさ。つか、君ももっとリピドーを曝け出したらどうだい。前に雫とアダルトショップ行った時も君だけ一歩引いてたし」「そ、そんなこと言われても」「じゃあ君が好きなキャラの由良ゆうらが別衣装で実装するとしたらどんな服が良い?」「……」「急に真剣な顔で長考するな笑う」「……バニー」「その心は」「……いつも真面目で優しくてみんなから頼られるゆうらが、兎という奔放としたモチーフに姿を変えることでそのギャップやゆうら自身の開放感が殊更に際立つので」「大丈夫? バニーの衣装って結構ハイレグがきわどいけど直視できる?」「……」「出来なさそうだな……」
「お嬢様、ご主人様はメイド服がお好きなんですか?」
ちょうど二人のドリンクとフードを持ってきたキャストがやってきた。そのキャストは丁重に二人の机に置き、優しいスマイルで声をかける。
「はい! 私コスプレ衣装の中でもメイド服が一番好きなんですよー!」
かなたが満面の笑顔で答え、倫太郎はどこか恥ずかし気に首肯する。
高校の制服姿の男女二人が仲良くオタク談義しているのを見て、青春しているなぁとメイドは自然と顔が綻んだ。
大学生なんです、と言うメイドは黒色清楚の長髪でスタイル抜群、顔立ちも見目麗しく清純な大人な女性だ。オタク文化こそ詳しくないが"可愛い服を着たい!"という自分の好きに向き合った今、ここで働いているとのこと。「ここで奉仕しながら、日本大橋に通われる方々の趣味や好きなことを聞いて、私もオタクを勉強中なんです」と親しげに微笑む。なるほど誰にも優しい委員長タイプの女性が、オタク文化を学ぶために話を聞きたいとばかりに近寄ってきたら、男女問わずとも思わずキュンときてしまうことだろう――そうかなたは分析した。
さらにメイドは、二人が机に広げているカードゲームを興味深そうに見つめ「一枚手に取ってもいいですか?」と丁重にうかがい、実際に手に取ってはそのイラストの美麗さや小難しい効果欄を一生懸命に読んでいる。
オタクではない一般人がオタク文化に触れるその瞬間でしか摂取できない栄養素は確かにあるな……とかなたはうんうんと無言で頷いた。
「コスプレが好きなんですね。お嬢様はコスプレされるんですか?」
「メイド服と……あとテンセグっていうゲームの、やんやのコスもしました。そうよな、釘矢君?」
「あっ、は、はい」
(この男子高校生の子は、この子のコスプレ衣装を見たことがあるんだ……どんな関係なんだろう)
メイドは倫太郎とかなたのあらぬ関係を想像し悶々とする。
「ほかのコスプレ喫茶もお二人でよくいかれるんですか?」
「えーっと……」
ailes d’angeでバイトしていることは一応隠しておいたほうがいいかもしれない、とかなたは思案した。同業が来ていると思われるとちょっと接客しにくいんじゃないか、と思った次第である。
「ailes d’ange、とかですかね。知ってます?」
それと、あわよくば他店舗でのバイト先の評判でも聞けれたらな、という下心もあった。
「もちろんです! あのお店にはほんっとうにお世話になってて……!」
するとメイドは、ailes d’angeの名前を聞いて感激するように手を合わせた。
「え? もしかしてウチ……じゃなかった、ailes d’angeとつながりが……?」
「それはもちろん……ここの日本大橋のメイドカフェもコスプレ喫茶もコンカフェも、全店舗がailes d’angeさんに感謝してるんです!」
ウチんところがそんなとんでもないことをしたっけな……? とかなたは首をかしげる。
(派手なことで騒ぎを起こすでもなく粛々と地道に営業を続けているお店だと思うんだけどな……)
「ここの日本大橋で有名だった酒乱迷惑客をお客様が剛腕一振りで撃退したっていう伝説があって!」
「あーそれかぁー」
さっそく心当たりがあってかなたは合点が付いた。
「ご存じなんですか!?」
「まあ、ちょっと、ね。その事件の場に居合わせたもので」
「そうなんですね! すごいっ……! あの伝説の場に居たんですか……!」
よほど衝撃的な出来事だったのだろうか、メイドは目を輝かせながら言う。
「その迷惑客なんですが、ここの界隈の全店舗から出禁されて、腹いせにどこかのお店に襲撃しに来るんじゃないかってみんなビクビクしてたんですよ。警察も中々動いてくれなくて、もし事件が起きてしまったら……っていうところで、ailes d’angeさんのところのお客様が、その人をワンパンでKO! したっていう武勇伝! そのおかげで今ここの界隈はすごく平和なんですよ!」
「はえー、そんな感じだったんですねー。だって」
かなたは面白半分で倫太郎に笑いかける。
「あ、あは、は……」
倫太郎はすっかり顔を青くして身を縮こませていた。まさか自分のしたことがここまで話が広がっていると思わず、心底から震え上がっているようだ。
「その場に居合わせたということはお嬢様は、その伝説のお客様のこと知ってるんですか!? お礼だけでもしたくて、このお店のオーナーさんがailes d’angeさんに直接身元を聞こうとしたんですけど、中々明かしてくれなくて……」
「まあ守秘義務っていうのがありますし……それにそのお客様も、恥ずかしいんじゃないですかね? ほら、歩いているだけで誰かから”あの伝説のお客様だ!”って思われるのもちょっと歩きにくいし、ねえ? 君もそう思うよなぁ?」
「あっ……そ、そう、です、ね……」
確かにバケモノ呼ばわりされるよりかはずっと名誉なことではある。とはいえ、この日本大橋では一人のオタクとして存在したいので、脚光を浴びるようなことは出来れば避けたいと倫太郎は心の底から願っていた。
「お嬢様は何か特徴とか知っていますか!?」
その倫太郎の想いを汲み、かなたはあっけらかんとした顔で答えた。
「なんか冴えないおっさんみたいな風貌でしたよ。私たちぴちぴちな若造とは全然違いました。ねえ、そうだよな?」
「そ、そ、そうです。こ、こう……身長も、ふ、普通な感じで……」
かなたの助け船に感謝するように、倫太郎は何度も何度も頭を下げた。かなたはメイドに気づかれないようにいいってことよ』とニヤッと笑う。
「そうなんですね……。他の人からの噂だと筋肉ムキムキマッチョマンだって聞いてましたが……実際に居合わせたお嬢様がそうおっしゃるのであれば、本当はおじ様だったってことなんですね……」
ひとまず噂の風向きが変わったことで、倫太郎はほっと胸をなでおろした。
◇◇◇
「いやー、まさか噂がここまで広まってるとはね!」
日が沈みかけの、空がうっすらとオレンジ色に染まる時間帯。アニメショップやらカードショップやらメイド喫茶やらを満喫してすっかり満足した二人は、火が沈む前に帰ろうかと駅までの道を歩いていた。
「正直、心臓が飛び上がりそうでした……」
「あのメイドさんも、まさか目の前に伝説の人がいるとは思わなかっただろうな」
「あ、あはは……」
「それでどう? メイドさん可愛かったでしょうよ」
かなたは『大人の魅力ビンビンに感じたわー』と満足げに笑っている。
「えっと……」
倫太郎は、すぐに即答できなかった。
確かに服装も様々なバリエーションがあったし、キャストそれぞれで特色のあるアクセサリーやアレンジを加えていた。そういうところはいいなと思っていた。
だが、メイドの顔やその雰囲気を思い出すことができない。
そういえば、接客してくれたメイドの名前すら忘れてしまっている。
良い店だったはずなのに。楽しかったはずなのに。
(……なんでだろう)
『ご主人様は、メイドがお好きなんですか?』
伝説のお客様の話でひとしきり盛り上がったのち、そんなことをメイドから問われたことを倫太郎は思いだす。
倫太郎がメイドと言われて最初に思い浮かぶのは、初めて日本大橋で出会った時の、あの勝ち気で堂々とした姿を見せた小さなメイドかなただった。メイドと言えばかなたであり、かなたと言えば可愛くて、そして――
『す、好き、です……』
容姿端麗なスタイル抜群のメイドを前にしながら倫太郎は、頭の中はメイド服のかなたでいっぱいだった。
「鈴木さんは……」
「ん? 私? 私めっちゃ楽しかったよ。お客さんの職業のことなんて言うのかなって言ったら、”人生経験の一環”って例えてたんだよね。確かにお嬢様やご主人様が普通にサラリーマンしてたらちょっと変だけど、それを庶民の生活を学ぶためっていう表現に変えてたんだよな。そこの言い方も面白いなーって。参考になるわー」
「な、なるほど……」
かなたはただただ純粋にメイド服が好きなのだ。
(俺は……俺自身は)
メイドが好き――だけじゃない。
もしもメイドが好きだったら、もう少しメイドのことを覚えているはずだから。
向かいに座っているかなたをしり目に夢中になっていたはずだから。
でも、そうはしなかった。
頭の中にあったのは、いつも、かなただった。
「うわっ、風だ」
ぴゅう、と風が舞い、かなたの綺麗な髪がさらさらとそよぎ、小さな耳が曝け出される。
その耳に、思わず倫太郎が目を向いた。
ぷっくりとした肉が柔らかそうだな、とふと思い、
なぜか無性に、触りたくなった。
「髪がくしゃくしゃになっちゃう、もー」
かなたは風に文句を言いたげに頬を膨らませ、細い指で髪をかき分けて整える。
倫太郎は、かなたの風に揺れる髪とその指の仕草を目で追うのに夢中になった。
世界でこれ以上可愛くて美しいものが存在するとは思えない。
見ているだけでドキドキと胸が高鳴り、多幸感に酔いしれる。
「ん? なーにじっと見てんの、スケベ」
背丈が小さいから、顔をくいっと見上げて、倫太郎にいたずらっぽく言う。
その愛おしい表情、さりげない仕草、そして愛嬌。
胸が高鳴る。
倫太郎が芽生えた”この感情”は、心の奥底に確かに存在した。
それに倫太郎は気が付かなかった。この感情を、自分みたいなバケモノが持っていいわけがないと思っていたから。
だから無意識のうちに隠していた。
しかしその巨大な感情は、とうとう隠し通せるものではないほどに成長しきっていた。
それが、ほんの些細なことで発露しただけのこと。
思えば最初から――かなたと出会った時から、この感情は芽生えていたのかもしれない。
カバンにぶら下げて揺れている防犯ブザー。
ドッジボールのボールが当たったかなたの小さな鼻。
通り過ぎる大人がかなたのほうを見つめてくる視線。
倫太郎の視界にうつり込むそれらすべてから、それに起因するかなたへの脅威から、守りたい。
(俺……鈴木さんのことが、好きなんだ)
かなたに心の内を悟られないよう、倫太郎は顔を背けた。
それをかなたはただ恥ずかしがってるだけだと思い、ころころと鈴のように心地よい音を立てて笑っていいる。
倫太郎は、人生で初めて、恋を知った。
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