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初めてできた友達は、小さくて可愛いコスプレ好きなオタクの女子高生でした。  作者: 安田いこん
第三章 198センチの陰キャオタク君が球技大会で頑張る話
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第54話 もしもあの時、本気を出していなかったら

「え、お、俺が、ニュージーランド……?」


 話が全くついていけない。なぜなら、留学の話を聞いたのはラグビースクールのコーチではない。

 母親からだったからだ。


 語学力が付くからだとか。

 若いうちから留学の経験があると将来なにかと有利だからだとか。

 現地にも日本人のサポートしてくれる人が付いてくれるから安心だとか。


 そんな、聞いてもいないようなことを、母親は嬉々とした声で倫太郎に言う。


「い、いや、べ、別に行きたく、ないけど……」

 

 海外に住みたいだなんて考えたこともなかった。

 周りは外国語だらけだろうし、会話も通じる気もしない。

 元々引っ込み思案な倫太郎が見知らぬ土地に来て、想像できる未来は破滅しかない。

 それを倫太郎は自分自身と日々対話して重々、重々と承知していたから、拒否する以外の考えなどなかった。

 そして、その気持ちは、両親にもわかってくれるものとばかり、思っていた。


 母親が説き伏せるように言う。

『倫太郎、どうしてそんなことを言うの?』

『倫太郎のために、いろんな人が協力してくれるって言ってくれてるのに』

『ラグビーの偉い人がね、倫太郎はニュージーランドっていうラグビー大国で揉まれれば、きっと最高の選手に成れるって言ってくれたのよ』

『お母さんびっくりしたんだけど、倫太郎ってあの和瀬打高校からもお誘いがあったらしいじゃないの! すごいじゃない! なんで言ってくれなかったの!』

『ともかくも、日本の高校の人たちがみーんな倫太郎のこと欲しがってたみたいなんだけど、結局倫太郎が花園大会に出てもただ無双するだけじゃないかって』

『だから、それよりかは、身長も体重も日本人とは全然違う、ニュージーランドという国で戦えば、倫太郎もきっと”本気”を出して試合できるんじゃないかって言ってたのよ』

『そもそも私、倫太郎が本気出してないで試合出てたって知らなかったよ! 倫太郎ってほんっとうに強い子なのね! お母さんの体から出てきてくれたとは思わなかったわ!』

『私ね、ラグビーの人に褒められたのよ! お母さんが毎日おいしいご飯を作って食べさせてあげたおかげで倫太郎の今があるですって。子育てしてあんなにたくさんの人に褒められたの初めてだったわよ!』

 

「お、おれは……い、いきたく、な……」


 父親が諫めるように言う。

『倫太郎。どうしてそこで逃げてしまうんだ』

『お前の才能が一番輝ける舞台こそがラグビーじゃないのか』

『高校のスカウトの人たちとな、お父さん個人的にお話したことがあってだな、皆さん決まって言うんだ。倫太郎は日本一の逸材だって』

『お前は知らないかもしれないが、ラグビー以外にも野球部のスカウトも注目しているんだぞ。甲子園常連の逢坂東院の、あの監督だって熱視線を送っていたって聞いたぞ』

『お前の才能は家で燻ってるだけじゃああまりにももったいないんだ。お前を必要としてくれるのは何も日本だけじゃない。世界なんだ。俺はお前みたいな息子がいて誇らしいと思うぞ』


「……や、やだ」


『確かに不安かもしれないわ。お母さんだって、倫太郎が違う国に行くってなったら本当に寂しいわ。でも、それでも倫太郎には頑張ってほしいの』

『お父さんだって息子の留学のためなら、どんな仕事だって耐えきれる。倫太郎の将来のためなら、どれだけ残業してもへっちゃらなんだ』


「……」


 コーチからの入れ知恵だ、と倫太郎は察する。

 両親を説き伏せて、逃げられないようにしたのだ。

 日本の高校ではなくニュージーランドに留学させようとしたのも、自分の経歴に箔をつけるためだ。


 自分の名誉のために、俺を、売ったのだ。

 両親を、誑かしてまで。


「……絶対に、嫌だ」

 

 倫太郎は意地でも、両親の前で首を縦に振らなかった。


 平穏の場所であったはずの実家の空気が、ピリピリとし始める。


 母親は倫太郎を甘えん坊だと言い、父親は親の気持ちが分からないのかとくたびれた表情で言う。


 倫太郎に残された居場所は――


「おう! 倫太郎! 今日も試合観るぞー!」


 練習後の、七馬の家しかなかった。

 倫太郎は試合を見ながらふと、七馬に言う。


「先輩、俺……なんか、ニュージーランドに、ラグビー留学しろって、言われてるんですけど……頭おかしいですよね、うちの親って」


 はは、と倫太郎は自虐的に笑った。


 七馬は、笑わなかった。


「……そっか」


 ラグビーの試合の動画を一時停止して、七馬は真剣な顔で倫太郎の言葉を受け止める。


「え、あ、あの……」


「……まあ、お前レベルの選手になれば、そんな誘いも来るか」


 そう呟きながら七馬は遠い目をする。

 

 七馬がもっとも尊敬する選手はニュージーランドの選手でも、南アフリカの選手でもない。

 あるスクラムハーフの日本人選手だ。

 海外の強豪がひしめく世界最高峰ラグビーリーグのチームに日本人選手として初めて挑み、そこでレジェンド級のニュージーランド代表選手とレギュラーを争い、先発を奪ってみせた。

 その選手の体格は、身長166cm、体重72kg。決して恵まれた体格ではない。だが、己を常に奮い立たせ、海外の厳しい環境に耐え抜いたのだ。

 

 それもすべて、誇り高き日本代表の選手になるために。

 

 後に2015年、2019年のワールドカップでスクラムハーフのレギュラーとして活躍し、偉大なる勝利に貢献した。日本ラグビーの歴史において未来永劫語り継がれる選手である。


「海外の人と信頼関係を築けるかって不穏な気持ちになるよな。俺の尊敬する選手ってな、海外のリーグ行って、でも英語全然できなかったんだぜ」


「……え?」


「日常会話が難しくても、それでも、チームのためにプレーをした。ひたむきに、粘り強く。気の利いたジョークや流暢なトークスキルで、なんかじゃない。ラグビー選手として愚直なまでに戦う姿を見せたことで、その選手はチームに受け入れられたんだ」

 

「あ、あの……」


 倫太郎は、七馬が笑い飛ばしてくれるとばかり思っていた。

 ありえないだろう、とか、お前みたいなやつがいっても虐められるだけだって。


 そう、嗤ってほしかった。


 馬鹿にしてほしかった。


 それなのに、目の前にいる先輩は――


「行けよ。ニュージーランド。そこで日本代表として、一足先に暴れてしまえ」


「っ……」


 違う。

 そんなことを、言ってほしかったわけじゃない。


「……俺」


 倫太郎は、かすれた声で、縋るように、七馬に言おうとする。


 きっと七馬先輩になら、助けてくれるだろうと、倫太郎は願っていた。


 もう、倫太郎が頼れる人は、両親でもなく、コーチでもなく……七馬しかいなかったから。


「……」


 でも、倫太郎は、言葉を続けられない。

 ここで、弱音を吐いてしまったら。

 ニュージーランドに行きたくないだなんていってしまったら。

 七馬先輩が、愛想をつかしてしまうんじゃないか。


 卑屈で気弱な倫太郎は――自分の気持ちを、思いの丈を伝える勇気を、持てなかった。


「しかし、ニュージーランドか……。正直めちゃくちゃ羨ましいぜ。何せ世界最強のラグビー国だからな。その本場のラグビーを教え込まれるっていうのは最高の環境でしかないわ」


 七馬は思う。間違いなく倫太郎は、世界クラスの逸材だ。

 世界中探したって、これほどの才能を持つ若い選手は一握り……いや一粒ほどしかいないだろう。


 そんな選手がこうして今、目の前にいる。


 これは、めったにない機会なのではないかと、七馬は思った。


 倫太郎と共に勝利した都道府県別の大会で、当然のように倫太郎は二年生ながらベストメンバーに選ばれた。二年生が選ばれるのは初めてのことだったらしい。

 一方で三年生である自分は選ばれなかった。

 高校スカウト陣は当然、この大会の試合の活躍を通じて選手を見定め評価する。その大会でベストメンバーに選ばれなかったということは、自分は強豪校のスカウトの目には止まらない程度の活躍しかできなかったことを意味する。

 中堅クラスの高校スカウトの話は来ているが、それでは倫太郎には届かない。届きようもない。


 自分は、足りないのだ。


 夢だった世界に挑もうとするには、超えないといけない。


 世界有数の才能を持つ、倫太郎を。


「……まあ、そう考えれば、お前を倒せるようになれば、最強に近づけるってことだな」


「え」


「よーし、決めた! 俺の目標は、お前をぶっ倒すこと! 覚悟しとけよ?」


 にやっと笑う。それは倫太郎に対する、宣戦布告だった。

 ただの先輩後輩の中ではない。1人のラガーマン同士として。

 

 倫太郎はそんな関係など、願ってなどいなかった。

 

 ずっとずっと、頼りになる先輩でいてほしかったのに――



 ◇◇◇


 

 その日以降、スクールの練習後、七馬は倫太郎を家に呼ぶことをやめた。

 

「おい! 手加減すんな! 最後までふんばれ!」


「っは……はい……」


「手を抜くんじゃねえぞ!」


 家でラグビーを語るよりも、グラウンドでタックル訓練に明け暮れることにした。倫太郎は七馬に言われるがままに練習に付き合う。


「おい、あまり無茶させるな!」「ケガさせたらどうするつもりなんだ!」


 コーチは七馬にキツく何度でも叫ぶ。

 七馬はわかっていた。ただでさえ練習を制限されている中、タックル練習のような激しい運動は倫太郎の怪我のリスクを確かに高める。


 だが、もう、コーチの言うことになりふり構っていられなかった。


「まだまだっ……やるぞっ……!」

 

「はぁ、はぁっ……はいぃっ……」


 倫太郎は七馬の練習に従う。

 タックルバックを持った相手にただひたすらタックルをたたき込む。1分間、休むことなく。

 攻守交替してまた1分間タックルする。それを何十回も、足がガタガタになるまで体を追い込む。


(き、きつい……くるしい、つらい、吐きたい……)

 

 本当はタックル練習だなんてしたくない。疲れるし、汗が出て気持ち悪い。

 でも、従わないと、七馬が自分から離れて行ってしまうのではないかと思ったから。

 コーチもまた、倫太郎がやると言った手前、止めることができない。

 他の選手は愛想をつかしてさっさとグラウンドから離れていた。


 グラウンドには七馬とコーチ、そして倫太郎の三人しかいなかった。


「今から、ラックからのタックルの練習をする」


 七馬がマーカーを置く。ここをラック地帯とし、ラックからボールを出す攻撃側に七馬、ラックの近くを守る防御側が倫太郎とした。


「シチュエーションを考える。お前が次の攻撃に目を向けて、ラックから離れている状態。そのラックとお前との隙間を、少しずつ縮める。どこまでの隙間なら俺が攻められるかが分かるし、お前もどこまでラインの近くまでよれればいいかわかる。お互いの知見になるだろ」


「……は、はい」


 言われるがまま、倫太郎はまずラックの地点からだいぶ遠くまで離れた。


「いや離れすぎだろ」


 はは、と七馬は笑う。もちろんそれほどの差があると、七馬は余裕で突破できた。


「まあ、こんだけラックから離れてるケース何てそうそうないがな。ま、いいや。じゃ、そこから一歩ずつ、ラックに近寄れ」


 じりじりと、倫太郎がラックに近づく。一歩、倫太郎との距離が縮まるだけで、七馬は肌がしびれるような威圧を覚えた。


「この距離なら、まだ、お前を抜けれる。当然、とーぜん」

 

 倫太郎が手を伸ばしても届かないほどまでに走り抜けられる。


 だが、そこからまた一歩、倫太郎が近づいたところだった。


 距離にして1.5メートル。これほどラックから離れているのは防御側に明らかなミスがないと起こりえない状況。

 攻撃側としてみれば大チャンスだ。


 だが、その距離で……七馬は思ってしまった。


(……突破、できない?)


 七馬の呼吸のリズムが荒れる。

 

(こいつにとっての1.5メートルの”不利”は、俺に対して関係ない、とでも……?)


 そんなわけがない、あっていいはずがない――七馬はボールを持ち、突破を試みる。


 だが――


「っうわぁぁっ!?」


 七馬の目の前に倫太郎の太い手が見えたと思ったら――そのままグラウンドの芝に転がされた。

 

「うそ、だろ……!?」


 反応を読んでいたとしか思えない。走り出したと同時に、倫太郎がほぼ同じタイミングで走った。そして長身を伸ばし、手だけで七馬を掴んで倒したのだ。


「お、お前……なんで、俺の走り出すタイミングが、わかった……?」


 後輩の前で寝転ぶ姿をさらすわけにはいかない。すぐさま起き上がった七馬はくやしさを堪えながら倫太郎に問う。


「……軸足の、膝の向きが、変わったから、です」


「は?」


 七馬は、愕然とする。


「な、なにを……言って……?」


「あの、な、七馬先輩もそうなんですけど、こう、人が動き出すときって膝から動くなって思って……。いや、足も動くんですけど、膝ってこう、関節なので、プラプラするから、その分その揺れというか、その動きが分かりやすいので……。あ、あと、肩に力が入ったなっていうのもあって……。それと、フェイントをかけてるのも、リズムが一定で、そのリズムが少しずれたタイミングで走るっていうのが何回かやって、分かったので……それで、た、タックルしました」


 倫太郎の言葉が、七馬は理解できない。

 いや、したくない。


 倫太郎は一か八かのギャンブルで1.5メートルの差を埋めたのではない。


 理屈で、七馬を倒したのだ。


 そこには、はったりどころか、負けん気すらない。気持ちのこもったプレーだったわけでもない。


 タックルで止めて当然なのだ。


(いつからだ……? いつから、俺は、こいつとこんなに差が付いた……?)


 最初出会った時、気弱そうなやつだと思った。実際その通りだし、練習でもへこたれてばっかりだ。

 だが、いざ練習で本気を出すと、誰にも止められない。

 80キロ超あるフロントローのタックルを片手で止め、バウンドしたボールを誰よりも高く飛んでキャッチする。

 3人がかりで止めないと倒れないし、それでもすぐ倒さないとパスをさせる余裕を生ませてしまう。

 倫太郎を止められる中学生は誰一人としていない。


 タックルで叩きのめしたあの日が、まるで嘘のように。

 

(この1.5メートルの差を、俺は、どうやって埋めればいいんだ……。この差を埋めないと、世界に挑めない……日本代表にだって、選ばれない……。これじゃあ、バスケの道を捨てた意味が、意味が……)


 七馬は顔をうつむかせたまま、再びラックの位置に戻る。倫太郎は慌てて元の位置に戻った。


「あの、せ、先輩」


 この時、倫太郎には悪気はなかった。

 七馬を気に掛けたわけでもなかった。


 純粋に、思ったことを口に出したのだ。

 

 

「もう少し、離れた方がいいでしょうか」


 

 その言葉に、七馬の何かがぷつんと切れた。


「……ラック守ってる奴が、そんな離れた位置にいると思うか」


「え、あ……え、えっと、そ、その……」


「もう三歩、俺に近づけ」


「え……え? ち、近づくって……それは」


「いいから近づけっつってんだよ!!」


「つ!?」


 七馬の大声に、倫太郎は体を縮こませる。

 なぜ七馬がいきなり叫んだのか、倫太郎は察することができない。

 ただただ、怖かった。悲しかった。

 あの七馬先輩が、自分を怒鳴った――それが、倫太郎にとって大きなショックだった。


 寄る辺が、消えていくのを感じる。

 居場所が、無くなっていくのを感じる。


(い、いやだ、いやだ、いやだっ……!)


「全力で、俺を倒せ! 手加減をするなぁっ! 俺を殺す気でやれ! 俺も俺をぶっ殺す気持ちでやってやる!」


 七馬は構える。


 後輩に”情け”をかけられた――それが七馬にとって、屈辱以外の何物でもなかった。


(俺が、こんな、こんななよなよしているような男になんか……負けねえ! こいつをぶっ倒して、俺は世界に行くんだ! 絶対にっ……!!!)


 理屈も何もない。意地でもなんでもいいから、倫太郎を超える。


 そして七馬は、倫太郎に告げた。

 

「てめえ、手加減したら……二度と口きかねえからな!」


 これ以上情けなどいらない。七馬の覚悟を決めた言葉。


 それに倫太郎は真正面から受け止めてしまった。


(そん、なっ……)


 いやだ。

 いやだ。

 いやだ。

 いやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだいやだ。


(ほん、き、で……やらなくちゃ……七馬先輩と、離れたくない……離れたくないっ……!)


 そして倫太郎は、禁じられていた本気を、解放した。


(わからない、どうして七馬先輩が俺に怒ってるのか、分からない。でも、本気を出せば、本気を、七馬先輩にぶつければ……七馬先輩は、赦してくれるんだ)


 自然と姿勢が、低くなる。

 すべての神経を、七馬の動きに集中させる。

 たった一瞬の隙も見逃さない。












 





























 







 

 呼吸も、心臓すらも鼓動するのを忘れたかのように。

 静寂の間合いが、二人をつなぐ。


「っ!」


 七馬が、スタートを切った。

 その0コンマの世界――反射速度の限界の速度で、倫太郎は七馬に襲い掛かる。

 七馬の脚を――あの時、初めて出会った時に教えてもらった、あの超低空タックルのように、倫太郎は地を這うがごとくのタックルを、七馬に、ぶつけた。


「っぐあぁあああああ!!!?!」


 ものすごい衝撃だった。骨が、響く。折れるではない。破裂しそうになる。


 尋常ならざる痛みが七馬を襲う。

 至近距離からの強烈なタックルに、アドレナリンを冷ます激痛に、七馬は――


「まっ……負けるかぁああああ!!!!」


 倒されながらも、立ち上がろうとする。


「っ!?」


 ルール上、タックルされて倒れたら、そこから立ち上がることは反則行為に当たる。

 それは攻撃側が有利だから、という理由ではない。


 スポーツで反則行為が定められている理由の最たるものが、怪我のリスクである。


 肉体と肉体がぶつかり合うラグビーにおいては怪我のリスクを伴うプレーに特に厳しい。

 ラグビーにおける反則行為の一つが、タックルされた選手が再び立ち上がること(ノットリリースザボール)。

 このとき、七馬は倫太郎に確実に力が入った状態で腕をつかまれ、倒された。この時点で『タックルが成立した』とみなされる。

 タックルが成立した時点で、タックルされた選手はボールを手放さないといけない。そこからボールを持って立ち上がってプレーを続行することは許されない。


 それはなぜか。


 前述したように、それが極めて危険な行為だからである。


「ぐおああああああああああ!!!!」


 七馬は右足で、ふんじばるように立ち上がろうとする。

 非常に不安定な状態だ。重心も泳いでいて、足の筋も変な方向に力が入ってしまっている。


 その極めて危険な状態で――立ち上がっている選手に対し、追撃が入ったらどうなるか。


「っ……う、うあぁぁぁぁあっ!!!」


 仮に、倫太郎が冷静であれば。

 仮に、倫太郎が七馬のプレーが危険を伴う反則行為であることが分かっていれば。


 倫太郎は適切な”手加減”として、七馬の体を離していたことだろう。


 だが、倫太郎は、


 逃れようとする七馬の体を、片手で、なぎ倒した。


(七馬先輩の全力にっ……応えるんだぁああああああああ!!!!!!!!!!!!!!!)



 

 ブチッ。


 

 

 嫌に耳に残る、音が聞こえた。


 途端に、立ち上がろうとした七馬が、力を失ったように倒れる。


「え、あ、あの……な、七馬、先輩……?」


「っ……あぁぁっ……ぁぁぁぁっ……あああぁぁぁぁぁあぁぁぁぁぁぁぁぁっっ……!」

 

 消え入りそうな声で、右足を抱えるように倒れる七馬を、倫太郎は見下ろしていた。


 一瞬、七馬の身に何が起きたのか分からなかった。

 ただ、痛いだけじゃないことは、分かった。


 人間の体において、決定的な何かが起こったのだと……そう理解する頃には、練習を見守っていたコーチが駆け寄ってきていた。


「靭帯か……! まずい、これは……完全に、切れたかもしれない……」


 あのブチっとした音。立ち上がることも困難な状態を見てコーチは、七馬の膝の骨同士を繋ぐ靭帯が、完全に断絶されていることを悟る。

 靭帯断裂の完治は1年以上かかる。高校受験を控えた七馬にとってあまりにも致命的な怪我だった。スポーツ推薦はまず無理。完治したとしても、今後のスポーツ人生は大きく変えざるを得なくなる。


 さらにコーチは、七馬が無意識のうちに庇う腰に大きな腫れがあるのを見逃さなかった。おそらく、腰も骨折している。

 倫太郎の全力のタックルは、ほとんど交通事故と変わりなかった。


(だから倫太郎君に本気を出さないようにしていたのに……! なんで本気を出させるような真似を……!)


 靭帯断裂と腰の骨折という二重苦は、七馬が二度とスポーツが出来なくなるかもしれないほどの大怪我だった。

 

 コーチは震える指で救急車を呼ぶ。七馬はもだえ苦しみ続けている。顔が青ざめ、呼吸ができないほどの痛み。

 

「い、いてぇっ……いてぃよぉっ……」


 消え入りそうな、かき消えそうな、七馬の声だった。


 そして倫太郎は、自分が今、七馬に対してしでかしてしまった事の重大さを、理解してしまった。

 震える倫太郎を見て、コーチは慌ててフォローする。


「……倫太郎君。君は悪いわけではないから、気を落とすな。これは、七馬が、無理なプレーをしたことで起きた事故だ……」


 コーチの声は、倫太郎に届かない。


「だから、いいんだ。君は、考え込むな。何も、感じるな」


 だって、君は――


「君には、彼よりも、才能があるんだから。将来が、あるんだから」


 倫太郎の目の前が、真っ暗になった。








 

 

 それから、倫太郎は、二度とグラウンドに足を踏み入れることはなかった。

 

 こうして倫太郎は、ラグビーを、辞めた。



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