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第34話 自分がどう歌いたいか

(よし、目線は前にして、猫背にならないように……)


 笑って少し前向きな気持ちになれたのか、かなたはその勢いのまま歌う。


「だきしめてよ、ほら 大きな腕を広げてさ 私が飛び込んでいくから」「愛を教えてよ 小さな私にもわかるくらい」「ねえねえ 大好きだよ」


 歌っている様子を、倫太郎は手拍子する手を必死に抑えながらもにこやかな目で見つめている。雷華はただ無言のまま、腕を組みながらかなたの歌声を聞いていた。

 雷華が確認しているのは、歌う姿勢やその歌声だけではなかった。

 もっと深い、根幹の部分。

 

 歌を歌うという、そのもののことを。


「……」


 雷華は時折顔を上にあげ、なにか理解しようとするように指を揺らす。


 かなたが歌う”歌声”について、言い表す言葉が思いつかない。


 それは歌が上手いとか下手だとか、そういう領域の話ではない。


(……歌詞を覚えているくらいだから、やる気はある。それはまあ、間違いないんだろう)

(姿勢も時折猫背にはなるが、意識的に背中を伸ばそうとしているからふざけているわけでもない)


(だが、なんだこの違和感。なんといえばいいんだ)


 雷華に映るかなたの表情は、先ほどまでやかましいほどにうるさかった、呆れるくらいの快活さが消え失せている。

 その理由が、雷華は分からなかった。

  

「はい、ということで歌い切った! さあ罵詈雑言叱咤叱責なんでもいいやがれってんだい!」


 2人に見られながらなんとか歌い切って、まな板に乗る魚のような気持ちで雷華に叫ぶかなたの表情を見て、


(ああ、そういうことか)


 雷華はペットボトルを手でポンポンとたたきながら諒解する。


(こいつ……空っぽだ)


「……?」


 困惑するような表情を浮かべるかなたに、雷華は尋ねる。


「この曲を、どういう気持ちを込めて歌っているかを言え」


「……え」


 かなたは虚を突かれ、立ち尽くした。声が汚いとか、音程がバラバラだとか、そんなことを言われると思っていたからかなたはしばし動揺する。

 

「取り繕うな。心に浮かんだことをそのまま言え」


「え、えっと、その、聞いてくれる人が、喜んでもらえるような」

 

 正直、しっかり考えたこともなかった。歌詞も、ただ覚えたのを唄う、できるだけ上手に、という考えでしかなかったから。


「違う。自分がどう歌いたいか、だ」


 しっかりとした考えを持っていないことをすぐさま見抜いたか、雷華はさらに鋭く問いかける。

 

「そんな、こと、だって……私が、歌ったって」


(有名な歌手の人のように、声優のように、歌えないし……)

  

「人が歌った動画を他人である自分が超えられることはない」

 

 言いかけた言葉をズバリ当てられて、かなたは動揺した。

 

「お前も、そして俺も、その曲を歌っている歌手の声そのものにはなれない。そもそも声の質が違うし、それに、表現したいことが違うから」


「表現、したいこと……」

 

「何を表現したいか、が明確じゃあないと、どんな声で歌うべきかをアドバイスできない。それが分かってから初めて、じゃあこの歌詞を思いっきり楽しく歌いたいならこういう歌い方がある、と指導できる。俺はお前の正解が分からないから、指導しようがないんだよ、今のままでは」


「で、でも……わ、私なんかド下手くそが気持ち込めようたって、その……ただキモいだけじゃねえか?」


「気持ちのこもってない声で人を感動させることはできない。絶対に」


 そうはっきりと、雷華は言い切った。

  

「お前の、この曲の歌詞を初めて聞いて芽生えた感情があるはずだ。確かこれは初恋の歌なんだろう。恋という感情はお前にとってはなんだ、うれしいのか? それとも怖いのか? 他にもそんな感情で言い表せないような何かがあるはずだ。何かを感じ取れるはずだ。感情を持った人間なら」


 かなたは言葉に詰まってしまう。

 

(か、感情か……可愛い曲だなとは思ったけど、でも、そもそもこの曲……な、なんで決めたんだっけ……アニメで歌ってたから、じゃなくて、お客さんにウケるから、とかでもなくて……)


 雷華はかなたからの答えを待っている。その間、雷華の表情は真面目そのものだった。いら立ちだとか、わずらわしさだとか、そんな感情は今はない。

 かなたが最初からふざけて歌っているのであればこの場から立ち去っていたが、そうではなかったし、歌声も根本から矯正しなければならないほどのものではない。


 歌に感情を込める――声楽のレッスンで、講師から何度も何度も問われてきたことだ。

 『こなれた様な顔で歌うな』『かっこつけて高音の声を出すな、見苦しい』『君はこの曲で何を観客に伝えたいんだ、考えて歌え』『声が綺麗なだけでホールを沸かせられると思っているのか』『オペラを舐めるな』などと指導され、課題曲の歌詞を一から理解して自分の心に落とし込め、フレーズ一つ一つに意味を、意思を持たせる訓練をレッスンでひたすら続けてきた。もちろん自分よがりな歌い方などではなく、自分が聞いても、他人が聞いてもその歌に込めれた感情を想起できるよう発声やリズム感、身体器官の使い方などを講師と徹底的に議論して理想に向かって鍛える。『私から歌い方を褒められることに喜ぶのではなく、自分が『これだ!』という歌い方ができたことの方を喜べるようになれ』と講師に言われ、それを愚直にやってきたつもりだ。

 そんなスパルタじみた叱責を初心者であるかなたに浴びせるつもりは毛頭ない。だが”歌うコツ”なんてものを教えるつもりもない。


(言うのが恥ずかしいのは当たり前のことだ。感情を表現するというのはそういうものなんだから)

 

 だから、雷華は手を差し伸べない。この曲はこう歌った方がいい、などと言って指導するなど、己の矜持を損なう唾棄すべき行為以外の何物でもないからだ。


 一方のかなたはというと……。


(……やべえ、この曲決めたマジの理由完全に思い出した、しかもありえんくらいキモオタすぎる理由だったわ……どうしよう、常鞘の前でこれいったら恥ずかしいどころの話ではなくね?)


 曲を決めた理由とその時の感情まですべて思い出し、内心汗だくで青ざめていた。


(曲が良かったからとか、流行ってたから……ってごまかそうとしても多分常鞘は察するだろうし……)

 

「釘矢君やい」


「あ、は、はい!」


 かなたと雷華の二人が話しているところに割って入ることもできずやきもきしていたところで、倫太郎は元気のいい声で答えた。

 

「いや私、思い出したんだけどさぁ、この曲に決めた理由……ち、ちょっと一旦聞いてもらってもいいか?」


「え、は、は、はい……」

 

 かなたが耳元まで近づいて、その小さな口で、そっと、不安げに囁いた。


 倫太郎は、一瞬目をぱちくりさせながら、明るい表情でかなたに答える。


「いいんじゃないですか! なんというか、すっごく鈴木さんっぽいなって思います!」


「っ……そ、そうか」


 こんなにドストレートに肯定されるとは思わなかったから、かなたは少し面食らった。

 だが、その倫太郎の言葉にほっとしている自分もいたことをかなたは自覚する。


(……常鞘に言うの、正直めちゃくちゃ怖いけど……でも、マジで本当のことだし)


 かなたは自分の席に戻る最中、倫太郎の顔をこっそりと垣間見て、


(それに、釘矢君と一緒なら……まあ、一緒に恥かいて笑えるか)


 いたずらっぽくこっそりと笑った。


「えーっと、その、常鞘。あの、マジで笑わないでほしいんだけど……」


(……なんだ? いやに照れた顔しやがってこいつ。ああ、初恋の歌だから自分の初恋のこと思い出してんのか。はっ。そんなこと恥ずかしいと思ってるなんてこいつもだいぶ初心な奴だなぁ)

 

「あの、私には……結婚を前提にお付き合いをしているロリがいて」


「は?」

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