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第31話 An die Musik

 雫から渡されたチェキを今生大切にクリアファイルに保存しながら倫太郎は、雷華と話す機会を慎重にうかがっていた。


 授業中、雷華はと言うと気だるそうに机に肘を付けている。後ろの席になったからか、いつも以上に油断して眠ろうとしている。

 

(ね、寝ているところをつついたりとかして……あ、あの先生の授業って眠くなるよね、とかそんなこと言ってみるとか……でも、眠たいところを邪魔されるのって多分不愉快かもしれないし……)

 

 などと躊躇して、雷華と話せずにいた。すぐ前の席にいるというのに、チャンスをつかめない。

 そうこうしている間にあっという間に昼休み前の最後の休み時間になる。


(い、いや……も、もう少し様子を見てからで……オペラのこととかもっと調べてからで……)


 そんな弱気になっているところに、突然雷華が倫太郎の方を振り向いた。


「っ!?」


 倫太郎はびっくりするが、そんな倫太郎の動揺をまるで無視するかのように雷華が言う。


「前の授業で小テストの範囲ってどこって言ってた?」


「えっ、あ、あっと……! き、教科書の34ページの……3行目から35ページの12行目までの範囲!」


「どうも」


 そのまま雷華は前を向いた。


(し、っ……しゃべれたぁ! やっぱりすごい綺麗な声だ!!)


 ワンセンテンスの会話だけだったが、倫太郎は感激で目をキラキラとさせる。


(そ、それにっ……! 常鞘君、俺に話しかけてくれるってことは……! 俺に多少なりとも興味があるってこと……!)


 話しかける、会話を持ちかけるということが何より一番のハードルなのだと思っていた倫太郎は、常鞘は自分のことが気になるのだと思っていた。

 倫太郎は思いもしない。雷華がただ単に倫太郎を都合よく使おうとしただけのことでしかないということを。


(ち、ちょうど話しかけられた今っ……チャンスだ!)


 倫太郎は意を決し、ついに雷華に声をかけた。


「あ、あのっ……常鞘君!」


「なに」


 雷華は振り向かない。それも気にならないほど前のめりだった倫太郎は、雷華に会話のキャッチボールを試みた。


「つ、常鞘君って……ど、どんな、せ、声楽の、曲を、う、歌うの?」


 雷華は倫太郎の質問に眉を顰めた。言っている意味が、よく分からなかったから。


「……どういう意味?」


 雷華は質問の意図が分からず、ただ面倒くさいから倫太郎の方を振り向こうとはしない。


「あ、あのっ……! お、俺、せ、声楽、に、き、興味があってっ……! そ、それで、常鞘君が、どんなオペラを、歌うのかなって……!」


「はぁ」


 雷華はまともに反応を返さない。

 カラオケの際にオペラを歌え歌えと面白交じりに言われたのが今でも腹立たしく、ただ真正直に質問を返す意味がまるでないと思ったから。


「お、俺、その……オペラの、こととか、し、調べててっ……! あの……え、えっと、そ、その、シューベルトがオペラの音楽を、作ってるって、みたいな、あれとか……! し、シューベルトって有名だよね、あの、す、すごい人だよねっ……!」

 

 何とか何とか、雷華の共通項を探し出さないと、と倫太郎はつんのめりながらも雷華に振り向いてもらおうと必死になる。


「つ、常鞘君はど、どんな曲が好き?」


「……An die Musik(アンディムジーク)


「え?」


 言われて倫太郎は、固まってしまった。

 言葉の意味が、理解できない。

 人の名前なのだろうか、それとも、オペラの名前なのだろうか。

 まったく、見当がつかない。


「音楽に寄せて」


 それだけつぶやいて、倫太郎が無言であり(反応なしか……)と心の中でため息をつき、雷華は気だるそうに机に突っ伏した。


「っ……」


 倫太郎は呆然とする。救いを求める様にスマホでAn die Musikを調べる。

 オペラではなく、歌曲。音楽に寄せて、とはその日本語訳だ。

 そしてその作曲者は、シューベルトだった。


(し、しまった……!)

 

 せっかくシューベルトの話題を出したのに、その肝心の、雷華が好きだというシューベルトの曲を、倫太郎は分からなかった。

 背中を向く雷華が、遠く届かないように思えた。

 

 一度はあったはずの雷華とのつながりが、自分のミスで、というよりも――計画性のなさで分断してしまったと思い、倫太郎は両手で顔を覆った。


(ど、どうしよう……や、やらかしたっ……!)


 一方の雷華はと言うと……


(シューベルトがオペラの曲作ってたことくらいは知ってるけど、だいぶマイナーな知識だな。『アルフォンソとエストレッラ』……だったっけ。俺でもそれくらいしか知らないぞ? その癖に有名なAn die Musikは知らないって、偏ってんな……) 


 倫太郎の付け刃であっちこっちに無作為に調べたが故の頓珍漢な知識に、雷華は少し戸惑っていた。


(シューベルトはオーストリアだから、オーストリアのオペラが好きなのか? だったら先にモーツァルトが出てくるだろ。『ドン・ジョヴァンニ』の主役が歌う第1幕第11番は威勢のある大胆不敵な声で歌うのにその第16番だと女を誘惑するような甘い声に変わるっていうバリトン歌手らしい二面性のある表現力が試されるいいオペラだよな、みたいな話とか)


(いや、モーツァルトはドイツ人だとかいう派閥かもしれない。だったらなおのことシューベルトじゃなくてワーグナーだろ。『タンホイザー』の第1幕で歌う1回目のヴェーヌス賛歌は変ニ長調だったのが半音ずつ上がっていって3回目になると変ホ長調になるの緊張感ある、とかの話するのかと思った)

 

 オペラといえば、でシューベルトが出てくるという倫太郎の謎さが、だんだんと面白おかしく感じるようになってくる。


(ま、多分何も知らないだけなんだろうけれど)


 それにしても……と雷華は思う。


(オペラを歌ってほしいとか言ってくる奴は多かったけど、オペラが好きだとか言ってきたのはこの学校に入ってからだと、後ろの席のあいつが初めてだな……)


 オペラを知らないのに歌ってほしいと言ってくるような奴ばかりで、仮に一小節歌ったところで大した反応が返ってくるわけでもない。声楽をろくに知らないくせに、バカにしているようで腹立たしい。だからそんな奴らに自分の好きなことを話すつもりは毛頭もなかったし、周りはそんなやつらばかりだと思っていた。

 

(俺が声楽をやっているのがただ珍しいだけで、その珍しさが面白いだけだ、ああいうやつらは。そんなやつらとか、女子とか、声が綺麗だよねとか適当なことを言うんだ。声楽のことなんも知らないくせに、知ろうとしないくせに。嫌なんだよ、俺の”好き”をただ話題の1つとして消化しようとする人間が)


 それに比べれば、倫太郎の「オペラが好き」という言葉はさほど不快ではなかった。知識量が怪しいところを除けばだが。


(あいつがどんなつもりでオペラが好きって言ったかはわからないけれど……まあ、他の連中に比べればだいぶマシか)


(ふぁぁ、ねむ。次の授業、あいつと席交換して眠ろうかな。あいつが前に居たら俺隠れるだろ)


 そしてその倫太郎はと言うと……


(つ、常鞘君ずっと黙ったままだ……! き、きっと、お、怒ってるに違いないっ……!)


 自分の失敗を引きずって、胃が締め付けられる思いをしていた。


(こ、このままだと、カラオケに誘うどころか、友達にすらなれない……)

  

 倫太郎は自分の力不足を嘆き、自己嫌悪に至る。


『やー、なにそんな不安な顔してんだって! 朝なんだから明るくいこーぜ!』


 ふと、倫太郎の脳裏に、今朝のかなたの快活な声が聞こえてきた。


 いつだって明るくて、自分を励ましてくれる人。


 そんな人を、支えてあげたいと決めたじゃあ、ないのか。


「っ……」


 倫太郎はクリアファイルをカバンからこっそり手に取り、そこに大事にしまっていた、かなたとはるにゃんのツーショットのチェキを手に取った。

 周りにいる人に決してばれないように、大きな背中をぐっと丸めて、閉じこもるように。


 チェキに映る左には、優しく包容力のあるはるにゃんの笑顔と、そして右には、わんぱくに大きく口を開いて笑うかなたの姿。お互いに片手ずつポーズをとり、それを合わせて一つのハートマークを形作る。

 そのかなたの太陽のような眩しい表情に、倫太郎はいつだって救われてきた。


(ま、まだだ……まだ、挽回、できるチャンスはある、は、はず……! わ、わからない、けど……で、でも!)


 倫太郎はそのチェキを、メイド服姿のかなたの顔を、倫太郎は縋るように見つめる。

 

(俺が流暢に会話できるのって蒼き乙女の世壊統合(テンセグリティ)とか、ラノベとか、漫画……俺が知ってるようなのって、たぶん知らないよな……)


「次の授業眠いから席変わってもいいか? お前のを壁にした……」

 

(あとは、コスプレ喫茶とか……)


 ふと、倫太郎は、

 誰かからの目線を感じた。


 それは体で覆いかぶせて守っている後ろからでも、横からでもない。


 真正面からだ。


「おい」


 尖った声だった。突き刺すような、鋭い声。

 それが雷華の声だというのを、倫太郎は時間差で気が付く。

 倫太郎が知らぬ間に、雷華は倫太郎の方を向いていたのだ。


 そして雷華の目線は……倫太郎が持つ、チェキを指していた。


「あっ、ち、ちがっ」


 反射的に倫太郎はチェキを持つ手を遠ざけようとする。

 自分がかなたの顔をじっと見つめていたことが、今になってものすごく恥ずかしいことなのではないかと思ったから。


 しかし雷華の手の方が早かった。倫太郎の手首をつかみ、それを自分の方へと無理やり引っ張る。


「うわぁあ!?」


 そして雷華は、チェキと倫太郎の顔を交互に見ながら、言った。


「お前、なんで……」

 

 雷華の顔は、

 焦りの顔で満たされていた。

 この学校で見せたことのない、冷や汗をダラダラと流して信じられないものを見るような、表情で。


「なんで、俺の姉の写真を持ってる……?」


「……………………………………………………………………………………え?」


(……え? 姉? どういうこと? え? な、なにが、ど、どうして、え、な、なにが、どう……??)


 俺の姉、という雷華の言葉が頭の中でぐるぐると、行き場を探し求める子犬のように駆けまわっている。


(え、あ、姉……って、まさか鈴木さんが常鞘君のお姉さんっ!? い、いや、でも、苗字が違うしさすがにそれはないか……? それに、仮に姉弟だとしたら鈴木さんは何か言ってくるだろうし……)


「あ、あの、ど、どういう、意味……?」


 倫太郎が恐る恐る言うと、雷華は頬が焼ける様に赤くなった。


「ひっ……ひ、左……の、だよ! お、お前、分かって言ってんのかっ……」


 左に映っているのは、はるにゃんの優しい笑顔。

 

「え、そ、それって、つまり……」


 授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。


「……ちっ!」


 倫太郎を問い詰めたかったが、雷華は舌打ちをしてしぶしぶと前を向く。

 

 取り残された倫太郎は、訳が分からずしばらくの間放心状態していた。


(……え、ちょっとまって……常鞘君と、はるにゃんが……姉弟……?)


 言われてみれば、と倫太郎はチェキに映るはるにゃんの顔を今一度ちゃんと見る。

 ……確かに目のあたりとか、輪郭には面影があるかもしれない。

 ただ、雷華はいつも無表情で笑ったところを見せないから、笑顔しか記憶にないはるにゃんと重ならなかったのだ。


 一方雷華は……。


(ああ、くそ! まさか姉のコスプレ喫茶に通ってるやつがいるとは……。普通に恥ずかしくて最悪……。だが、好都合と考えよう。あいつをうまく利用して……)


倫太郎との、とある"取引"を考えていた。

 

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