死人漬けの水飲もうとも
私は水道水を飲んでみては吐いていた。どうにかして克服してやろうと挑戦しては何度もこうなっているのだ。
私が水道水を飲めなくなったのは、あの事件が発覚してからのことだ。私が住むマンションのタンクに他殺体が沈められていたあの事件だ。
気づかずに水道水を普通に使って、死体漬けの水を飲まされていた。それを知って、犯人を激しく憎んだ。なぜ関係のない人間を巻き込んだのだと。
犯人にこそ、私が感じている苦痛を味わってほしい。犯人はこのマンションに住んでいたそうだが、犯行に及んだあとはビジネスホテルと転々としていたそうだ。
何を自分だけ逃れてやがるのか。殺してやる殺してやりたい死んでしまえ。思えど、やつはすでに捕まっていて、復讐の機会もない。
怒りのぶつけ先がない。そして、いつまでも心に負担が残り続けている。
事件を知ってすぐに引っ越しを決め、ビジネスホテルに一旦避難した。数日、飲み水はペットボトルで過ごしていたせいで気づくのに遅れた。
吐き終わり、呼吸を整える。水が自由に飲めないというのは、本当に不便だ。今では歯を洗うのも、ペットボトルの水を使っている。手を洗うのも、本当は抵抗がある。
理屈ではわかっているのに、どうしても気になってしまう。
私はこの状況をどうにかして打開したかった。ショックが大きかったから、こんなことになっている。
ならば、もっと大きなショックを自分に与えてみてはどうか。
私は、砂漠に囲まれた国へと旅に出ることにしたのだった。
砂漠は昼夜の寒暖差が大きい。乾燥しているため、死体などは急速に乾燥してミイラ化するそうだ。日本のような高温多湿なところでは死体は腐敗するものだが、こちらではそれがないのだ。
腐敗と遠いために、死に対して汚いものだという意識もない。
私はそこに希望を見出したのだ。死を汚いものだと意識しないので、それを忌避する気持ちも薄くなるのではないか、と。
砂漠の景色に刺激を受けて感動に打ち震え、いい旅になったと満足していたのだが、ここで大問題が起こった。
どこぞの金持ちの悪趣味なパーティー参加者と間違われて拉致されそうになったのだ。
若い女がみんながみんな金欲しさになんでもやると思うなよ!
逃げ切るのも大変だった。違うと説明してもそうだろうと食い下がられ無理やり連れていかれそうになる。
いくら金を積まれようが●●野郎の●●を〇で受け止めたりなどしたくない。しかも口止めの果てに全身の骨を折られて絶命した状態で捨てられるなんて話も聞いた。やってられるか。
景色も出会った人も良かったのに、一部の●●野郎のせいで最悪の思い出となってしまった。
人がいる場所では結局嫌な思いからは逃げられない。ならば、と一人になろうと山に登ってみる。だが、山の上は案外人に出会うのだ。より人のいない場所に行こうと危険度が高い場所にも行ってみる。それでも、GPSなどを見る限り人の足跡はあった。歩ける場所というのは、やはり踏み固められていて歩きやすくなっているのだ。
まったく人が歩いていない場所は足を入れると踏ん張れない。それでも、そんな場所から出てきた人を目撃して、謎の敗北感を得たりもした。
より難度の高い場所へと己を高め、私はついに世界最高峰クラスの山へと挑むこととなった。
無酸素単独登頂を目指すため、より難度は高く、孤独ともまた戦う。
死体が道標となる世界である。到達することすら困難であるため、遺体の回収も容易ではない。そのため、客死した人の遺体はそのまま放置され、道標となってしまっているのだ。
文字通り死と隣同士の世界である。
クレバスを見て、かつてクレバスに落ち、私ここで死ぬからと宣言して、仲間たちに進むように促したという女性の話などを思い出す。
体を慣らすため、中継地点での生活を続けていると、薄い人影のようなものを見ることが増えてきた。
かつて登頂を目指して道半ばに力尽きた人達だろう。
言ってしまえば幽霊のようなものだが、実際に目にしてもそれを怖いと思う感覚は抱かなかった。
彼らには恨みなどの悪感情の印象はなかった。心残りがあるようにも感じない。彼らはただ目指すべきを目指しているだけだ。そこには生者との違いはないように思えた。
明日、私も彼らの内の一人になっているのかもしれない。だが、それも受け入れられる。
飲み水は雪を溶かして作る。その雪も死体の上を滑り落ちてきたものかもしれないし、死体真横からとったとしても、もう何も思わない。
最早、死を恐れたり忌み嫌ったりする感情などを持つこともない。私はすでに生死の境に立っているのだ。




