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タクシーが止まったのは、見たこともない住宅地だった。
「3500円です」
運転手の言葉に、佐伯は手を動かそうともしない。それどころか、僕に「はやく」とだけ言った。
「僕が出すの?」
「ちょっと、払ってよお客さん。まさかお金ないとか言わないよね、え?」
運転手が語調を強めるので、仕方なくデビットカードを出した。
タクシーを降りると、辺りはすっかり暗くなっている。
白い街灯が不気味に転々としていて、民家に明かりが点いているのに生活の気配はまるでしなかった。
「結局さ、何しに来たの?」
不意に佐伯が言った。
「何しにって……」
「私のこと捕まえるわけ?」
「そういうんじゃないけど」
「言っとくけど共犯だから」
そんなわけがない。頭では分かっていても、妙な説得力があって、共犯なのかもしれないと思わされた。佐伯が大人びてみるせいかもしれない。
「……共犯ならさ、逃げるしかないじゃん。共犯なら」
「勝手にすれば」
佐伯が迷いなく歩き出すので、ついて行くしかない。
やはりというべきか、到着したのは佐伯の自宅だった。木造アパートの2階、1K。いかにも就活生の一人暮らしだ。
佐伯が鍵を開けたので続いて入ると、中は意外に質素、というより散らかっている部屋だった。
「身体目的?」
ベッドに腰掛けてマットレスを撫でながら、佐伯は出し抜けに言った。
僕はうんともすんとも言えないから「ええと……」と口ごもる。
「それ、みんなそうする」
佐伯の言う「みんな」が誰のことなのかは察しが付いたし、その「みんな」にこれを聞いているとしたら苦いことだ。
「逆にどうやって答えればいいの?」
「素直に答えりゃいいじゃん。どうせみんな身体目的なんだから」
「……素直に答えるなら、僕は身体目的じゃないよ。少なくとも今は」
一生懸命目を逸らさずに伝えると、佐伯は視線を何度か泳がせてから「そうかもね」と言った。
佐伯はリモコンでテレビを付けた。お笑い芸人がMCのクイズ番組だった。教科書の内容から問題が作られていて、若手俳優がしかめ面で頭を抱えている。
「座りなよ」
佐伯が言った。椅子が見当たらないのでカーペットの上に胡坐をかいた。佐伯は冷蔵庫からビールを2缶取り出して、片方を僕の傍らに置いた。
「どうする?」
「飲むよ」
「そうじゃなくて」
佐伯がプルタブを引く。心地よい音がした。
沈黙が訪れた。佐伯が言葉を付け足すのを待ったがそれは叶わない。
「だから、身体目的じゃないって――」
「私さ、さっき人を刺したわけじゃん?」
ほんの少しだけ苛立ちが含まれていた。初めて佐伯の感情が見られた気がした。
「だから、どうするってこと?」
「うん。だってさ、君ついて来たわけじゃん」
ついて来たから、何だと言うのだ。
のこのこ佐伯の家まで来てしまったのはただの衝動だし、妙案があるならとっくにそうしている。
テーブルに置かれた佐伯のスマホ画面が光って、Yahooニュースの通知がきた。
『新宿で男性刺される。容疑者逃亡中』
自分のスマホでも同じ速報を見て、答えは決まった。
「自首するしかないよ。刺しちゃったんだから」
「やだよ」
「だってニュースになっちゃったし。きっと監視カメラにも撮られてるよ」
「だから、それをどうする? って聞いてるんじゃん」
「警察も馬鹿じゃないよ。先に襲ってきたのは向こうだし」
「親にバレたくないんだよね」
涼しい目元をこちらに投げかけて、佐伯は平然と言った。テレビから大勢の笑い声が聞こえてくる。
僕のスマホには親からのLINEが来ている。『夕飯はいるの?』『いらないよ。今日友達の家泊まる』。やり取りを手短に済ませて、佐伯を見返す。
ふつふつと僕の心に後悔が湧いてきた。親にバレたくないのはこっちも一緒だ。いずれ僕の家にも警察が来るのだろう。
帰って来ない僕のことで両親が問い詰められ、困惑すると同時に僕を酷く心配する。想像するだけで動悸がした。
「……ごめん、やっぱり帰るよ」
「あっそ」
佐伯に背を向けて玄関へ向かった。脱ぎ散らかしたスニーカーを整えながら靴ベラを探すが、見当たらない。仕方なく人差し指と中指で踵を滑り込ませた。
下駄箱には見たことのあるコンバースが並んでいる。
「ねえ」
部屋の方から呼び止められた。
振り向くと、佐伯が下着姿で立っていた。
「したいんじゃないの?」
「そんなんじゃないよ、本当に」
「嘘じゃん。いいよ、そういうの」
紅い唇がふんわりと歪む。白い柔らかな脚がゆっくりと蠢いて、左右の膝頭が擦られた。佐伯の笑顔を初めて、見た。
「したいんじゃん」
「そういうんじゃない。そういんじゃないって」
そういうのじゃないけど、彼女を見捨てられないとも思った。