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就活は自分との戦いだ、という格言なんて聞いたことがないが、それなら僕が言い出しっぺになろう。そのくらい、僕は自分と戦い続けている。そして案外、自分は手強い。
僕に向いている会社――というより仕事が、社会には存在しないのではないかと思う。就活を進めるほど思いは募り、だからといって無職のままでは両親に合わせる顔がない。
屈するまいと自分を鼓舞し続けて就職先を探しているが、もしも屈するとしたら何に対してなのかは分からなかった。
だからというわけではないが、いささか、疲れた。
条件のいい会社だと思って応募した先の企業が、大岡のような厳つい男を採用担当にしているのでは堪らない。
DAZNの無料トライアルを使ってサッカーの試合を観てみたが、5分と経たずに画面を閉じた。次の更新日前に『DAZN 契約解除』とリマインダーを入れる。
就活から自分を解放しようと決めた。しかしやることが思いつかなかった。
ライターバイトは先月以来やっていない。お陰で今月の収入はゼロだ。友達が多くないから遊びの予定もないし、無益にスマホを触って時間を消費するばかりだった。
スマホでマインクラフトをやっていると、インスタのDMに通知がきた。知らないアカウントだった。
スパムだと思ってスルーしかけたが、文面に『充電器』とあったのが引っ掛かる。
メッセージを開くと詳細が――簡潔というより不親切な短さで書かれていた。
『充電器。返したいから新宿来て』
そんなわけで、僕はまたもや好きではない新宿に行く羽目になる。
Tシャツの上にジャージを羽織って、ズボンにはデニムを選んだ。こういうどうでもいい抵抗をするときだけは、自分に嘘をつけない。
新宿に着いたときは18時を回っていた。
待ち合わせ場所には東口を指定されていたので行ってみると、相変わらず前しか見ない人々でごった返している。
人ごみを掻き分けて交差点前の花壇に辿り着き、インスタを開くと佐伯からメッセージが来ていた。
『ここのドトール』
不親切な文面の下には位置情報が載っていて、駅からは随分離れていた。僕が初めて佐伯を目にした場所だった。
彼女が目の前にいないから、イラ立ちのままに舌打ちをした。佐伯が僕をフォローしていないことも、怒りに拍車をかけた。
蟻みたいに蠢く人ごみを押しのけて、何度か肩をぶつけられながらドトールに辿り着いた。
佐伯は以前見たようにガードレールに体重を預けていた。白桃のパーカー、アディダスのスウェット、コンバースのスニーカー、ショルダーバッグ。赤坂のベンチャー企業では非常識に見えた服装は、歌舞伎町だと健全に映るのが不思議だ。
「えっと……佐伯、さん?」
頭の中で何度も呼んだ佐伯を、実際に口にするのは初めてだった。
佐伯は僕に気が付くと、チラリと一瞥くれて興味なさそうに目を逸らした。
「これ、ん」
彼女はショルダーバッグからコードと充電器を取り出して僕に差し出す。
また「ん」だった。
生クリームのように柔らかい佐伯の指に触れないよう、慎重に充電器を受け取る。
それで用が済んだら佐伯はさっさと去りそうだったので、気になっていたことを口にした。
「どうやって僕のアカウント見つけたの?」
「本名でやってたから、インスタ」
じゃあ僕の本名をどうやって見つけたんだよ。
口には出さなかったが、佐伯は察したらしかった。
「エントリーシートに書いてたじゃん、名前。君の学歴も知ってるよ」
エントリーシート、と記憶を辿って、面談前に書いた選考アンケートのことを思い出した。
僕がアレを書くのを佐伯が横目に見ていた、というのがいみいち信じられなかった。とはいえ最終的にはモバイルバッテリーは無事に戻ってきたのだ。それ以上のことはあるまい。
「じゃあ」
今度こそ佐伯は去っていく。
もっと彼女と話したかった。「ドトールで話して行かない?」と声を掛けられたらどんなに良いか。だが、それができないからドギマギしているのだ。
気落ちだけして佐伯の背中を見送っていると、背後から誰かにぶつかれた。
僕が文句を言う勇気を絞り出すよりも先に、ぶつかってきた男は佐伯の肩を掴む。
「おい!」
背後からでは伺えないが、凄まじい剣幕を浮かべていることは間違いない。そのくらい、鋭い憎悪に満ちた声色だった。
男はグレーのスーツ姿だった。片手に提げたビジネスバッグが、佐伯を脅すに連れてブランブラン揺れる。白髪交じりの髪で猫背なのが侘しい。
佐伯は冷静だった。垂れた眼差しの中の瞳が真ん丸になっていて、若干の動揺が見えなくもないが、あくまで見えなくもない程度だ。
彼女が何も言わずに男を眺めるままで、それが男の憎悪に薪をくべた。
「ざけんなよ、お前のせいだぞ! ざけんなよ!」
「……逆恨み?」
「逆恨みじゃねえよ! ざけんな!」
男の言っていることは支離滅裂で、落ち着き払っている佐伯に理があるように見えた――何も知らなければ。
昼間から見知らぬ中年男性と待ち合わせて歌舞伎町に消えていった佐伯を知っているから、僕は彼女と男の間に何が起きたのかは感付いていた。
どっちが悪いかと言われたら、どっちも悪い。自分を売る方にも、買う方にも、同情なんてできなかった。
行く末を眺めながら、さっさと立ち去ろうと思った。佐伯への憧れはとっくに失せていたし、性欲に突き動かされた末路をありありと見せられている。
せいぜい警察を呼ぶのが関の山だ――そのとき、男の右手にギラリと光るものが見えた。
「ッ!?」
息を呑んだ。
紛れもなく刃物だ。
左手で佐伯の肩を掴んだまま、右手には果物ナイフを振りかざしている。ブルブルと震えていた。
反射的に男に飛び掛かって、タックルを食らわせた。
「なんだよお前――」
構わず男諸共バランスを崩して側溝に倒れ込む。
男が何かを喚いた。顔を上げると、真っ赤になって激高する顔があった。何を言われているかは分からない。声にならない怒声を浴びせられて、唾が飛んだ。
「なんだよお前、どけよ!」
目の前で男が怒鳴って、生温い呼気が臭った。カサカサに荒れた唇の中に黄色い歯が見え隠れする。
男の右手を見ると果物ナイフはない。どこかに落としたのだ――そこまで確認できた自分に驚いた。
「早く、早く逃げろよ――」
男に馬乗りになって佐伯に言った。
彼女は呆然と立ち尽くしていたが、やがてスッと動き出して――果物ナイフを拾った。
何をするつもりだ? 訊ねるようとしたが、男が僕を跳ね除けた。仰向けに倒される。お尻、背中、後頭部の順でアスファルトに打ち付けた。痛い先に熱いと、感じた。
後頭部を抑えてのたうち回りたい衝動を我慢して、必死で目を見開く。
歪む視界の中で、男がよろめきながら立ち上がる。佐伯が果物ナイフを持っている。男が何か言っている。佐伯は何も言わない。男が後ずさりする。佐伯が駆け出す。
グサリ。音がしたわけじゃない。でもたしかに聞こえた。
佐伯の突き出した果物ナイフは、男の下っ腹に突き刺さっている。
「おま……ざけ……」
恨み言を零しながら、男が倒れ込む。刺された箇所を必死でさすっている。
刃物を抜くか抜くまいか迷っているようだったが、逡巡はみるみるうちに苦悶に染まっていった。
「ああ……もう」
ため息交じりの声は、佐伯が漏らした。
「佐伯――」
「最っ悪なんだけど」
呆れるくらい素直に後悔を口にして、佐伯は駆け出した。
後頭部を抑えながら僕も追いかけた。
走りながら、何故彼女を追いかけているのだろうと不思議に思う。追い付いたとして、僕はどうするのだろう。
いや、それは追い付いてから考えればいいのだ。
佐伯がタクシーを捕まえて乗り込んだ。僕もそれに乗った。
「何の用?」
「しょうがないだろ!」
佐伯はため息をつくと、運転手に行き先を告げた。