あん時のおっさん
☆
「すみませんお会計」
「しょ、少々お待ちください!」
文具店の店員は、大量のラッピング、横から聞いてくる客、鳴り続ける電話に阻まれ、レジまでたどり着けない。やれやれ。私はいつもこんな役だが、まあいい。それも今日までと思えば。
と。
「おい、他の店員どこよ? いねぇのか」
後ろから、ノッポの青年が声をあげた。彼の声と姿に、どこからか店員たちが慌ててレジに来た。
サングラスに派手なジャケット。指やら胸元やらにジャラジャラと金属のアクセサリーをつけている。怒らせたら怖そうではある。
その青年が、私の方を向いて笑った。
「おう、あん時のおっさんじゃん、元気?」
この、名前も知らない青年と会ったのは、かれこれ三年前のこと。
仕事で散々な目にあい、中間管理職らしく人のミスの責任をとり、休憩もままならないまま帰りも遅くなり、トドメのように酔っ払いに絡まれてた所に、声をかけてきた。サングラスはかけていたが、まだ派手な格好はしてなかった。
「やめろよ」
青年はただそう言っただけだが、酔っ払いは逃げていき、言った方もポカンとしていた。
二度目に会った時も、私の職場は、悪い例の見本市さながらなトラブル続きであった。四十年以上、ついているとは言い難い日々ではあったが、人の不始末を片づけ続けるのも、流石に疲れた。
家族も友人もいない……もう、終わらせてもいいのではないか。
そう思った時だった。
「あっ、あん時のおっさん!」
あの時の青年に声をかけられた。
☆
廻らない寿司屋に連れてこうとする青年を必死で押しとどめ、妥協案として自販機のコーヒーを奢ってもらい、缶を空けながら話を聞いた。
なんでも、サングラスをかけてないと光が眩し過ぎて倒れてしまうという。だが、サングラスしたままでできる仕事が見つからない。困り果てていた時に、あの場面に遭遇した。
「たった一言いっただけで収まってビックリさ。この見た目も使いようか、って」
今、ドラッグストアで夜勤してるという。店長が彼の病気に理解があり、女性店員に絡むクレーマー応対を引き受けている。
「絡まれてたおっさんには悪いけど、おかげで道が開けたっつーか。ホントありがとうな!」
「いや、こちらこそ……」
以来、なぜか私が仕事に疲れきった時に、ひょっこり会うようになった。
無事、レジで支払いを終える。青年に軽く礼を言い、その場を離れた。
遺書を書こうとした便箋だが、もう使う気が失せてしまった。まあいい。そのうち使う機会もあるだろう。
ふと振り返り、青年の会計が目に入った。
買っているのは、絵葉書だった。「引っ越します」の。
☆
私は相変わらず地味に不運な日常だったが、あの青年に会うことはなくなった。
彼が働いているドラッグストア(前に、拗れた取引先をおさめた帰り、雨に降られて入った時に会い知っていた)にもいなかった。聞こうにも、お互い名前も知らない。
まあそうだろう。今まで「なぜか、たまたま私が助かるタイミングで会ってた」だけなのだ。こっちが勝手に「最後のストッパー」と思っていただけで。
……あの文具店の帰りに、廻らない寿司屋に連れて行けばよかった。
そう思っていた時。
前を歩く人が、カバンからスマホを出した時に何か落とした。イヤホンが片方。
「落としましたよ」
声をかけて振り向いた顔に見覚えかあった。慌ててこちらに駆け寄ってくる。
と。
急に自転車が曲がってきた。もしそのまま歩いてれば衝突していただろう。
「あ、ありがとうございます!」
「いえ、あ」
咄嗟に出かけた言葉を飲み込んだ。
『あの時の店員さん』
便箋を買った文具店の店員だった。
「……まさか、な」
だが予感は当たった。
以後、私は意図せず「『あの文具店の店員さん』の危機を偶然、度々救うおじさん」を務める羽目になった。
信号無視の車から。
レジに呼んだ直後に来たクレーマーから。
傷んだ惣菜弁当から。
夜道で待ち伏せてた変質者から。
しつこい勧誘から。
「またまたまたまた…な、何度目でしょうか。ありがとうございます…!」
「どういたしまして。じゃ」
名前も知らず、それ以外に会うこともなく。
それは、私が転職するまで三年ほど続いた。
もしかしたら今は、彼女が「あの時の誰か」に偶然会う日々を送っているかもしれない。
あの時の便箋は、今も部屋のどこかにあるはずだ。
(了)