最終話
ゆうべ夢を見た。空飛ぶゾウと、二つの月と、ラクダのビスケットの夢。彼らと出会った日の夢だ。夢の中の私は子供だったけれど、その先の未来をぼんやりと理解していた。それでも、私の目に映る彼らの姿は、何も変わることなく光り輝いていた。
ケトルのお湯が沸いたので、私は先に挽いておいた豆にお湯を注いだ。窓の外は相変わらずの雨だ。窓についた雨粒が歪んだ景色を映して輝いている。立ち込めるコーヒーの香りを吸い込みながら、私は夢の中の彼らの言葉を反芻した。
しばらくの間、私はコーヒーを少しずつ口に運びながら、雨粒の中の景色を眺めていた。そうしてマグカップが空になると、それをシンクに置いて、キッチンの白いドアの方に向き直った。歩み寄って手で触れる。今は木材に白いペンキを塗った、ただのドアだ。ドアノブに手をかけて、しばらくそのまま、自分の呼吸の音に耳を澄ませていた。最後に一呼吸、大きく息を吸うと、ドアノブを回してドアを開けた。
ドアの向こう側は、見慣れた暗い廊下だった。突き当たりにある玄関ドアについた小窓から、少しだけ光が差し込んでいる。私はもう一度キッチンの方を振り返ってから、ドアの下にドアストッパーを挟んで開いたままにした。
廊下の空気は少し湿っていた。このところの雨続きを考えれば当然だ。一歩一歩を踏み締めながら、玄関に向かって歩いた。途中、寝室のドアの横に積み上げた、本棚に入りきらなかった本たちが目に入った。少しの間のつもりが、一体どのくらいの間そこに置きっぱなしにしていたのだろう。一番上にあった、外国の詩集を手に取って適当に開いた。そこに書かれていた詩の一節に、私は妙に目を惹かれた。
『多くのものが奪われたとはいえ、まだ残るものは少なくない。
その昔、地をも天をも動かした剛のものでは今はないとしても
今日のわれらは斯くの如し、である。』*
声にならない声でその一節を何度か読み上げてから、本を閉じてまた積み上がった本の一番上に置いた。
私は玄関の靴箱から黒いブーツを取り出して履き、傘立てに一本だけ立っていた黒い傘を手に取った。最後にこの傘を使ったのはいつだったろうか。雨の日には傘をさすのだということすら、久々に思い出した気がした。玄関のドアを開けると、雨音と冷たい空気と雨の匂いが一気に流れ込んできた。軒先から手を少しだけ出して、手が雨に濡れるのに任せた。悪くない。振り返ると、廊下の向こうの開けたままにしたドアの奥に、白いキッチンが見えた。なぜだか可笑しい気分になってきて、私は少し笑った。そして玄関のドアを閉めると、少し空を見上げてから、傘を開き、雨の中を歩き出した。雨粒が傘を叩き、不規則なリズムを刻む。気がつけばその音は、私の鼻歌に変わっていた。
とりあえず、新しい本棚を探しに行こう。私はそう思った。
(おしまい)
引用元 *岩波文庫 テニスン著、西前美巳編『対訳 テニスン詩集』