第三話
その朝、私は久しぶりに聞く雨の音と共に目を覚ました。屋根や窓を叩く雨粒が、陰気なドラムロールを絶え間なく奏でていた。寝ぼけ眼で時計を見た。7時少し前。もう少し寝ていてもいい時間だったが、せっかく目を覚ました自分に報いるため、ベッドの上で身体を起こした。窓に目をやると、雨で滲んだ景色を重たい灰色の空が塗りつぶしていた。枕元にあった本を手に取る。昨日寝る前に読んでいた本だ。しおりが挟まっている部分を開いてみたが、眠い頭で読んでいたのでほとんど記憶に残っていなかった。覚えているところまでページを戻してしおりを挟み直し、ベッドサイドのテーブルに本を置いた。頭をかいて、無造作に床に置かれていたスリッパを履き、立ち上がった。
廊下に出ると、ひんやりとした空気に寝起きの身体が震えた。廊下はいつにも増して暗かった。そもそもこの廊下にある窓は突き当たりの玄関ドアについた小さなものだけであり、薄暗いのはいつものことだったが、今日はそれすらぼんやりと灰色に光っているだけだった。せめて寝室の窓からの光を入れようと、ドアを開けっぱなしにして向かいの浴室に入り、洗面台で顔を洗った。冷たい水が一気に眠気を払い、意識がはっきりした。着ていたパジャマを脱いで洗濯カゴに放り込み、棚からいつもの、白い襟がついた黒いワンピースを取って着替えた。
廊下に戻ると壁際に置かれた本の山が目に入った。寝室の本棚に入り切らないので、仕方なくそこに積んでいる本たちだ。必ず新しい本棚を用意するから、もう少しの間辛抱してね。心の中でそう語りかけた。そして、温かい飲み物を手に入れるべく、廊下の突き当たり、玄関の反対側にあるキッチンに向かった。
キッチンのドアを開けたその先に待っていたのは、巨大な空白の感覚だった。思わずたじろいで、一歩、二歩、後ろに下がる。数秒か、はたまた数十分か、ともかくしばらくの間、私は呆然とその場に立ち尽くしていた。ドアの向こうで、キッチンがいつものように私を待っていた。だが、キッチン以外に私を待っているものはもうそこには何もなかった。くぐもった雷の音が響き、私は我に返った。ぎこちなくキッチンに背を向けると、壁際に積まれた本につまづきながら廊下を走り抜け、急いで靴を履くと玄関のドアを開けて外に飛び出した。土砂降りの雨が全身を打つのにも構わず、私は駆け出した。
街の人々はみんな傘を差し、上着の前をピッタリと合わせていたが、それを除けばどこも変わった様子はなかった。びしょ濡れのまま走り抜ける私を、ある人は怪訝な顔で、ある人は心配そうな顔でみた。その目はただ私だけを見ていて、他の何かを気に留めてはいなかった。何度か水溜りを踏んづけた。ぬかるみに足を取られた。それでも私は足をとめることができなかった。そうしてしばらく走るうち、ついに街を見渡せる小高い丘に辿り着いた。息を切らしながら、眼下の景色を見つめる。分厚い雲の下、見慣れた街並みが寒さに身を縮めていた。そして、そこにあるのは圧倒的な不在感だった。見た目には何も変わらない。それでも私は感じた。彼らの抜けた空白が、街を穴だらけにしていた。雨の音が、私の耳をノイズで満たす。だが、私の感じる世界はどこまでも沈黙していた。近くに置かれていたベンチにフラフラと歩み寄り、水浸しなのもお構いなしに座り込んだ。自分のつま先を眺めながら、私は悟った。彼らは去った。私と、全てを残して。ずぶ濡れの靴は、左右別々だった。
どうやって家に帰ったかはよく覚えていない。翌日から、私は風邪をひいて寝込んだ。
朦朧とした頭に、何度も彼らの声が響いた。しかしそれは悲しいほど明らかに、私の脳が作り出した幻だった。彼らの声は、私が模倣できるほど軽くはなかった。
一週間後、ようやく熱が下がった私は、まだふらつく足でキッチンへ向かった。彼らのいないキッチンに入るのはまだ気が進まなかったが、この数日の間にぼんやりとした頭で何度か食べ物を漁りに来たおかげで、少し耐性がついていた。とにかく何か飲みたかった。冷たい飲み物はとっくに底をついていたので、ケトルに水を入れて火にかけた。コーヒー豆に手を伸ばしかけたが、病み上がりの内臓を思い遣ってハーブティーのティーバッグが入った箱を手に取った。
お湯が沸くのを待ちながら、未だ降り続く雨粒を眺めていた。よく覚えていないが、この一週間、一度でも雨は止んだのだろうか。止んでいない気がする。きっとこの雨はいつまでも降り続いて、この家と私を飲み込むのだろう。そう思った。
その時、どこからかベルの音が聞こえた。反射的に電子レンジの方を振り返ったが、今は何も温めていなかったし、そもそも私のレンジはそんな古風な音で出来上がりを知らせてくれる洒落たものではなかった。キッチンを見回したが、音の出所は見当たらなかった。なんだったのだろう。初めて聞くような、それでいて馴染み深いようなベルの音が、頭の中に何度もこだました。
「チーン」
もう一度ベルが鳴り響いた。今度はわかった。音は、キッチンの入口の方から聞こえていた。じっと見つめると、いつもの見慣れた白いドアが、いつもと違う緊張した面持ちで立っていた。自然と足がそちらに向く。一歩また一歩とドアに近づくたび、胸が高鳴るのがわかった。あのドアの向こうに何かがある。あのドアの向こうで、何かが私を待っている。ドアの前に立ち、恐る恐る指先で、ひんやりとした表面に触れた。
白銀の砂漠から自分のキッチンに戻ってすぐ、私は寝室のクローゼットから折りたたみの椅子を持ってきてキッチンに置き、そこに座って丸一日、次のベルを待ち続けた。次の日また自分のキッチンに戻ったあと、今度は何年もしまいっぱなしにしていた折りたたみベッドを引っ張り出して、キッチンの通路に無理やり押し込んだ。
それ以来私はこうして、来る日も来る日もこのキッチンで、彼らの世界が私を呼ぶのを待っている。彼らの残した、彼らのいない、彼らの世界が。
その世界で、私は精一杯伝えるのだ。私が覚えていることを。今はそこにいない、いつかの彼らへ。
(続く)