第二話
ある日の夕方、ラジオが壊れた。明日もこの辺りの天気は晴れで、週末にかけて暖かい日が続く見込みであることを最後に伝え、プツリとノイズを立てたかと思うと、それ以降物言わぬ箱になってしまった。木製の外装に真鍮のつまみがついた、骨董品といっても差し支えないような代物だったので、いつ壊れてもおかしくないとは思っていたが、いざ壊れてみると本当に壊れたとは簡単には信じられなかった。電源コードを抜き差ししたり、つまみを色々回してみたり、裏蓋を開けてあちこちの接触を確かめたりしたが、とうとう諦めて床にへたり込んだ。うーんこれは困った。私の家で流れる音楽は、全てこのラジオを経由していた。料理をするとき、コーヒーを淹れるとき、掃除をするとき、洗濯をするとき、特に何もしていないとき、ラジオから流れる知らない曲を曖昧に口ずさむのが癖になっていた。
しばらくぼんやりと天井を眺めていたが、観念して立ち上がり、服の裾を払った。先ほどまで使っていたマグカップをシンクに置いてスポンジを手に取る。
「今日は歌がないね」
壊れたラジオから突然声がしたので、ギョッとして泡を顔に飛ばしてしまった。
「びっくりさせないでよ」
そう言いながら顔についた泡を拭く。カップを流して洗いカゴにおいて、改めてラジオの方に向き直った。
「そのラジオ、壊れたの。私の歌は、自ずから出てくるものじゃないから」
「そうか、それは残念だね」
「あなたたちは知っていたでしょ」
「まあね。それでも残念であることには変わりないよ」
彼らの声は、彼らの言葉が意味する以上の同情を示していた。私は自分が、自覚しているよりもずっと残念がっていることに気付かされた。頭を少し振って、彼らに尋ねた。
「あなたたちこそ、今日はどうしてこのラジオから話しているの?」
「僕たちは何も変わっていないよ。クラリネがそう聞いているから、そう聞こえるだけ」
彼らとの会話はいつもこんな調子だった。
「さあ、今日はどこへ行こうか」。古いラジオが、彼らの声でそう言った。
気がつくと、私は月明かりに照らされた白い砂浜に立っていた。小さな波が浜辺に打ち寄せて薄く引き延ばされ、足元まで来たかと思うと、また無限に続く海の一部へと帰っていった。白く丸い月が、揺らめく海に姿を写して緩やかに踊っていた。
彼らの世界はいつも夜だった。いつものように、真っ白なまんまるの月が、いつものように、私たちを照らしていた。少し冷たい海風が頬を撫でた。
「海は久しぶり」
私がそういうと、どこからともなく彼らの声が聞こえた。
「この海に来るのは初めてだよ」
「わかってるけど。どうしても海は、遠くでは繋がってる気がしちゃって」
どんな浜で、どんな海岸で、どんな星で見ようと、海は海で、全ては繋がっていて、全体で一つ。そんな感じ。
靴と靴下を脱いで、波が指先に触れるギリギリのラインを見つけて、砂浜に腰を下ろした。隣に目をやると、彼らが座っていた。白く光る人影だ。彼らの世界では、彼らはこの姿で現れる。とはいってもこれが彼らの姿だというわけではなく、私と話をしやすいように人間に似た形をとっているだけらしかった。水平線を見つめながら、彼らが言った。
「僕たちは全てが見えていると思っているけど、本当は僕たちも、この海のことを何も知らないのかもしれない。本当に全ての海は、どこかでは繋がっているのかもしれない」
「そうだといいね」
私は笑いながら言った。
「ねえ、写真撮ってよ」
私がそう言いながら手を差し出すと、その手にはいつの間にかカメラが握られていた。私が自分の部屋に置いている、いつも使っているインスタントカメラ。彼らはカメラを受け取ると、腕を少し斜め上に伸ばしてレンズを私に向け、ファインダーを覗き込みもせずに言った。
「はい、チーズ」
彼らがシャッターボタンを押す。カシャ。
「クラリネはいつも写真を撮るね」
インスタントカメラが吐き出した写真が現像されるのを待っていると、彼らが言った。
「そうね」
「どうして?」
「どうしてかな」
そう言いながら少し考えた。この気持ちは、彼らにはきっとわからないだろう。それでも彼らが問うならば、私は何かを答えたかった。
「あなたたちとは違って、私にとっての時間は目の前にはないから。光と化学反応の力を借りて、今この時の複製を作るのが精一杯。写真は今そのものを切り取ることはできないけれど、それでも私の記憶が薄れてしまった後に、何かを残せるもの」
少し間を置いて、彼らが言った。
「忘れてしまっても、全てそこに残っているよ。この海に、この風に、この砂に」
そして私の答えを待たずに付け加えた。
「まあ、そうは言っても、写真を撮るのは続けてほしいけどね。この機械は楽しいから」
彼らが撮った写真はいつも、時間を、空間を、そのまま切り取ったようだった。
後日買った新しいラジオから流れる音は、どこか違っていた。一週間ほど使った後、私はその新しいラジオを壊れた古いラジオの横にしまい込んだ。
あれ以来棚に入ったままの、横に並んだ2台のラジオを見ながら、私は思う。あの時にも、彼らは全てを知っていたのだろう。彼らは言った。忘れても、全てはそこに残っていると。しかし、砂や、風や、海が伝えるものは、私には単純すぎて、同時に複雑すぎた。それでも、確かに彼らが言う通り、全てが私の世界にはっきりと足跡を残していた。
「チーン」
キッチンのドアが、聞き慣れたベルの音を奏でた。もう一度ラジオに目をやってから、私は戸棚の扉を閉めた。
(続く)