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Left Behind  作者: 鯖来
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第一話

 このところの雨は、一向に止む様子を見せなかった。昨日と同じように今日も、雨粒は私の部屋の窓を洗い流していた。流すだけでなく乾拭きまでしてくれれば大層結構なのだが、あいにく雨雲がそんなふうに気を利かせたことはこれまで一度もなかった。雲はあんなにふわふわなのだから、さぞよく水を吸うだろうに。そんなこと馬鹿なことを思っていると、コンロの上のケトルが音を立て始めた。火を止めて、声高々にお湯が沸いたことを宣言するケトルを黙らせる。先に挽いておいた豆にお湯を注ぐと、蒸気に乗ってコーヒーの香りが鼻を通り抜けた。お湯が落ち切るのを待ち、マグカップを手に取って、傍のベッドに腰掛ける。広くはないキッチンに無理矢理置いた、折り畳みの簡易ベッドだ。ここが、このキッチンが私の部屋だった。白い石でできたシンクと、その隣のコンロ。通路を挟んでそれらの向かい側に、白い食器棚。通路の突き当たりには窓があり、雨粒が飽きもせずガラスを叩いている。窓と向かい合って、これまた白いドアがある。通路は今、ほとんどベッドによって塞がれていた。ぼんやりと窓を眺めながら、私はカップに口をつけた。


 半分ほど飲み終わる頃には、雨は一層激しさを増していた。マグカップをカウンターに置いて立ち上がり、食器棚の横から折り畳みの椅子を引っ張り出すと、簡易ベッドを折り畳んで食器棚の横に押し込んだ。ドアに向きあう形で椅子を置き、食器棚の上の段からビスケットを三枚取り出す。残りが少なくなってきた。そろそろ補充しないと。椅子に腰掛け、またコーヒーを手に取って、少しずつ口に運びながら時間が経つのにまかせた。


 飲み物がなくなってしばらくした頃、白いドアが「チーン」という音を立てた。昔の電子レンジのベルを耳触り良くしたような音だ。待ってましたとばかりに立ち上がり、シンクに空のマグカップを置いて、水につけておく。ドアの前に立ち、表面に触れると、木製のはずのドアはやけにツルツルして、ひんやりと冷たかった。一旦少しドアから離れ、上から下へ全体を眺めた後、もう一度近づいて、ドアノブに手をかけた。


 ドアを開けると少し冷たい風が頬を撫で、月明かりが差し込んだ。頭だけ出して向こう側を確認すると、見慣れた銀色の世界が静かに私を待っていた。ドアをくぐり後ろ手に閉めると、途端に雨音が消え去り、静寂があたりを包む。何度も、聞き飽きるほど耳にしたが、しかし聞き飽きない静寂だ。目の前は丘になっており視界が遮られていた。とりあえずはあの丘のてっぺんまで登る必要があるだろう。いつも通りならあの丘は多分砂丘なのだろうし、登るのは骨が折れそうだが仕方ない。今日も例によって砂漠を歩くには全く向かない服装だが、次はもっと動きやすい服でこよう、などという気は全く起きなかった。大きく息を吸って、吐いて、少しその場で砂を踏みしめてから、砂で覆われた地面を一歩ずつ歩き出した。


 何度か滑り落ちそうになりつつも砂の丘をなんとか登り切ると、一気に視界がひらけた。見渡す限りに広がる大地には砂が描く曲線的な模様が光り輝き、満天の星空とそれを覆い隠さんばかりの真っ白な月が全てを見下ろしていた。

「こんばんは。今日もきたよ」

少し上がった息を整えて、大きな丸い月に向かって一人呟く。

「こんばんは。クラリネ」

今はもうそこにない声が、そう応えた気がした。

クラリネ・ポムソルベ。それが私の名前だ。クリオネみたいな名前に、なんだかわからない苗字。


 歩きながら空を見上げると、時折流れ星が目に入った。ふと思った。流れ星に願い事を三回唱えると叶う、なんてことを言い出したのは一体誰だったのだろうか。あれ、五回だっけ。どっちにしろ、そんなことを考えつくとは、流れ星が消えてしまうまでの間に何度も唱えられるような、余程短い願い事を持った人だった違いない。せいぜい「どんぐり」くらいだろう。試しに何度か「どんぐりどんぐり」と呟いてみたが、これで叶ってしまって大量のどんぐりが手に入っても困るのでやめることにした。


 時折立ち止まったり座ったりしつつも、私はふらふらとあてもなく歩き続けた。目的地は明白だ。そんなものはないのだから。砂漠の道なき道は、どこまでも続いているようだった。月が地面に私の影を落としている。頭上の月はあまりに大きく、あまりに白く、あまりに滑らかで、あまりに優しかった。

ふとそれが目に入った。いや、目に入ってはいない。何も見えていないのだから。だがその場所は、確実に他とは違っていた。目に見えない光と影が、それを縁取っていた。


「不在」


私はこういう場所のことをそう呼んでいる。目で見ても何が違うのかはわからない。触ることもできない。音もしないし、ましてや匂いや味はするはずもない。それでも何かが違う。そんな場所だ。私はその場所に近づくと、いつものようにピースサインを作って、存在しないカメラのシャッターが切られるのを、少しの間待った。頭の中で呟く。


「はい、チーズ」カシャ


手を下ろし、息を大きく吸って、吐いて、月を見上げ、地面の砂を見下ろし、もう一度月を見上げた。そして振り返ると、今までもずっとそこにあったかのように、白いドアが佇んでいた。歩み寄り、ドアノブに手をかけて少し開けると、降り続く雨の音が隙間から溢れ出して空間を満たした。最後にもう一度月を見上げ、呟く。


「それじゃ、また」


彼らのいた場所。


彼らのいない場所。


彼らは去った。


全てを残して。


(続く)


挿絵(By みてみん)

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