クロユリの歯と血痕
東家宗一郎邸で、あからさまに最重要の証拠と思われる「クロユリの歯」を見つけ出した犬塚。真田には予定変更の連絡はしていたが、証拠品を持ち込むのは堺の方が妥当であろう。そうして居ても立ってもいられず、真田への報告前に堺の元にクロユリの犬歯を持ち込んだが……。
「そういう事なら、任しとき!」
そう豪語して、犬塚からクロユリの歯を預かった堺は大張り切りで鑑識課へと舞い戻っていった。しかして、無事に証拠品を預けた後の犬塚にできることと言えば、ただ待つことのみ。あの様子だと、すぐにも取り掛かってくれそうだと、犬塚はパソコンで真田への報告メールをパシパシと叩きつつ……鑑定結果に思いを馳せていた。
事件現場から血痕が見つかった場合、まずは人血かどうかを確認し、間違いなく人血だと判明してからDNA鑑定の流れとなる。クロユリの歯に残っていたそれらしきシミは微量ではあるが、しっかりと色を残していた事からしても、鑑識に耐えうる状況だと犬塚も思うものの。問題は、もしクロユリの歯に残っていたシミが人血で、DNA鑑定まで持ち込まれたとしても……血液の主が被害者や犯人ではなかった場合は、正確な対象者までは判明しないだろうという点だ。
血痕の持ち主を特定するには、当然ながら照合先のDNA情報が必要となる。もし、現状で警察が保持しているデータ内に対象者がいなかった場合、それらしい当たりを付けて、DNA鑑定の協力を取り付けなければならないのだ。これに関しては令状があれば従わざるを得ないため、ゴリ押しもできてしまうものの……これはあくまで強硬手段。まずは保有しているデータを掻っ攫うところからスタートになる。
(……今は鑑定結果を待つしかないか。緊急性も高いし、何より……あの堺部長の張り切り方からしても、1週間を待たずとも結果は出るだろう。そうすれば、血液型くらいは判明するか)
クロユリは血痕をつけた状態で敢えて自らの歯を折り、ソファの隙間に隠すという高度な芸当を披露している。そして、クロユリの犬歯に血痕がついていた状況を考えた時……彼女はおそらく、噛み付いたのだろう。宗一郎氏を殺した相手を……それこそ、思いっきり。
そして、彼女があまりに犬離れした行動を取ったのには、宗一郎氏の思惑が絡んでいそうだと犬塚は尚も思案する。実業家で大金持ちともなれば、自分が狙われていると自覚するのは当然の成り行きでもあったのかも知れない。
しかし、邸宅の様子からしても、宗一郎は他人を頼ることを極端に嫌っていたフシが見受けられる。狙われているのならば、ボディガードを手配すればいいものを。大金持ちともなれば、警護を手厚くすることだって容易かっただろうに、彼は徹底的に部外者を私生活からも切り離している。これでは、あまりに他人が付け入る隙がなさすぎるし、彼は邸宅に招く相手はしっかり選んでいたと言えそうだ。
(自宅で亡くなっていた時点で、犯人は顔見知りの可能性が極めて高い。そして、宗一郎氏にとって信頼できる相手だった可能性も高い気がするが……そんな相手に殺されるかも知れないと、宗一郎氏は予感していたのだろうか?)
そこまで考えたところで、犬塚は宗一郎氏の家に上がり込んだことがあるであろう人物をピックアップし始める。
まずは秘書の上林に、現在の取締役である大神咲……この2名は、本人の口からも宗一郎の自宅に招かれたことがあると証言が取れている。しかしながら……犬塚は上林と大神咲は宗一郎殺害については、ほぼほぼシロだろうなと考える。
上林については本人の証言ベースでしかないものの、彼女の宗一郎に対する忠誠は高かったとするべきであろう。それに、彼女が犯人だった場合は、まずまず宗一郎の自宅を殺人現場に選ぶこともないに違いない。彼女は自身が優秀なだけではなく、秘書という仕事柄、宗一郎のスケジュールを事細かく把握しており、自宅以外のロケーションを選ぶことだって容易かったはずだ。それに、彼女は宗一郎の気質も知り尽くしていたであろうし、あの邸宅に招かれる人間が限られている事も、知っていた可能性は非常に高いだろう。
(次に大神咲取締役だが……彼もホシの可能性は低そうだな……)
梓が思いつきで家宅捜索をしでかした時も非常に協力的であったし、何より彼は例のヴァイオリンに絡んで、こうも言っていたそうだ。「一度だけ、会長のお宅にお邪魔した時に……あのヴァイオリンについて、聞かされたことがありまして」……と。快活で直情的な人物であると前評判も聞こえてくるし、状況的にも、何気ない会話の中に嘘を混ぜ込む必要もない。この事からしても、大神咲は宗一郎の自宅に行った事はあれど、本当に1度きりであったのだろう。
(それと……純二郎氏と三佳氏も犯人の可能性は低いか。……何せ、クロユリを生かすメリットがないからな)
遺言状の中身を知っていても、知らなくても。実の兄弟関係にあるこの2名には、クロユリを生かしてまで宗一郎を殺すなんて、難易度の高い犯行を選ぶ理由がない。クロユリが犯人に噛み付いていたかも知れない事を考えても、襲ってきた彼女をわざわざ防音室にまで連れ込み、鍵をかけるなんて事をせずとも……宗一郎を刺し殺した凶器で、クロユリも返り討ちにすればいいだけだ。
(そうなると、残るは東家祥子氏に税理士の坂田氏。そして、弁護士の関氏……か)
エステティック・ショーコの汚職を調べていた時点で、祥子には宗一郎殺害の動機は十分にありそうだが……実の所、事件当時の病状を考えれば、彼女に宗一郎を殺害するのは難しい。
祥子は藤井の勧めによってTHCを摂取しており、事件発生前から重度の依存症に陥っていた。判断能力や認知能力の低下や、記憶障害も発症していたようだし、外出もままならなくなっていたのは事実である。……当然ながら、祥子は宗一郎殺害時も絶賛引きこもり中であった。
なお、現在の祥子は鑑定留置中の状態である。エステティック・ショーコに対する告発を受け、家宅捜索を余儀なくされた際には廃人同然の状態で発見されており、未だに回復が見込めない状況が続いている。……この調子では、宗一郎殺害以前の問題だろう。
(坂田氏については、あまり目立ったピックアップもないし、関与が薄い。彼を容疑者として扱うには、証拠も動機も希薄か)
そこまで考えて、容疑者候補として残った関豊華について、再び思いを馳せる犬塚。彩華の話からしても、足繁く宗一郎邸に通っていたことは判明しているし、遺言書の中身を誰よりも把握していた人物でもある。それに、何より……。
(決めつけるのは、良くないのだけど。……彩華ちゃんや純二郎さんの話からしても、関さんには動機もありそうなんだよな……)
関豊華が抱える、意外と深い宗一郎殺害の動機。それは……彩音と彩華の扱いについて、明らかに豊華とは異なる態度を取っていたと思われる点である。
純二郎の証言からしても、おそらくだが……宗一郎は弟と彩音の婚約を反対するどころか、陰ながら祝福していたのだろう。そして、彩音の忘れ形見でもある彩華の処遇にも気を配っていたのには、彩音に対する贖罪の意識もあってのことだったと考えれば、まずまず自然でもある。だが、宗一郎の祝福と配慮は真面目で勤勉な豊華にとって、ありがた迷惑であったのかも知れない。
自慢の妹をろくでなしの男に嫁がせるのだって、そう。妹の忘れ形見を自堕落にさせたのだって、そう。犬塚には……宗一郎は豊華にとって、邪魔な存在になりつつあったように思えてならない。




