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クロユリの知性は謎だらけ

 クロユリに強請られる格好で、犬塚がやってきたのは……東家宗一郎邸。高級住宅地・元麻布の一角で控えめに鎮座している一軒家は、事件発生直後の喧騒も忘れましたと言わんばかりに、静寂を貫いている。それでも、そこは紛れもない事件現場というもので。関係者以外立ち入り禁止なのは、変わらない。


(……考えてみれば、クロユリにとってここはあまり気分が良い場所ではないはずだが……)


 本当のご主人様と生き別れた、凄惨な事件現場。自分の腹を血まみれにしながらも、最後の最後までご主人様の側に侍っていたとされるクロユリにしてみれば……あまりに生々しい悪夢の現場であろうに。


(でも、本人もやる気みたいだし……改めて、事件現場を捜索するのも無駄ではないかも)


 それに、犬塚自身が事件現場に足を運ぶのはこれが初めてだったりする。元は鑑識課にいたこともあり、犬塚は何よりも現場検証を重視する傾向があったのだが、クロユリの保護者(暫定)に抜擢されてしまったがために、マスコミを避けるための籠城を余儀なくされていたのだ。なので、ある意味で盛りを過ぎた事故現場に足を踏み入れることになるなんて……ちょっと間抜けな気がすると、犬塚は人知れず苦笑いしてしまう。


「クロユリ、大丈夫か?」

「……(フス)」


 しかも、クロユリはこの態度である。出会った時から全く変わらない、鼻息だけで意思疎通をゴリ押ししてくる強情さに……犬塚は尚も、苦笑いで肩を揺らす。いずれにしても、当人(当犬)が尻込みしている様子はないし、ここは来てしまった勢いに任せ、突入するに限る。


(宗一郎氏は相当に、几帳面な人だったんだな……。何もかもが整然と並んでいる)


 下駄箱内の革靴や、スニーカーは色味や種類毎に分けられて収められている。きっと、スニーカーの方はクロユリとの散歩に使っていたんだろうなと、思いながら……犬塚は玄関に入っただけでもやり切れない気分にさせられるが。隣に並んでいるスリッパさえも、ピシリと寸分狂わずに並んでいるのを見ても、宗一郎が神経質な人間であったことは間違いないだろう。


 孤高のワンマン経営者。東家宗一郎のディテールはそんなことになっているが。驚いたことに、独身でもあった彼はハウスキーパーの類は出張サービスも含めて、利用したことがなかったらしい。もちろん、お手伝いさんを雇っていた形跡もない。それはつまり、この家の管理は宗一郎が自ら行っていたということであり、唸るほどの財産があったにも関わらず、彼は日常生活においても他人の手を借りることを良しとしなかった事になる。


(その割には、ワインセラーの中はややぞんざいな気がするが……)


 2階の奥の防音室。ワインセラーの中身はそのままのようで、開栓済みのワインとそうでないものが雑然と寝転がっている……と犬塚が思っていた矢先に、よくよく見れば、この並び順は年代によるものらしい。宗一郎のまめまめしさはここでも健在のようで、開栓済みのワインには開栓日が書き込まれたタグがぶら下がっていた。


「お前のご主人様は本当に、真面目な人だったんだな……。まぁ、それでなきゃ、あんなにも大きな会社を回していけないか……」

「……キャフ」


 犬塚の何気ない感想に、力ない反応を見せるクロユリであったが。すぐさま、何かを思い出したのか……置き去りの皮張りソファにヒョイと飛び乗ると、カリカリとシートの隙間を掘り始める。


「クロユリ、どうした? ここに……何かあるのか?」

「クフ、クフ!」


 背もたれと座面の僅かな隙間に、白い手袋をはめたような前脚を一生懸命に押し込もうとするクロユリ。その不可解な様子に、彼女が護送車のシートから貴重な証拠品を探り当てたことも思い出し、犬塚は慌ててシートの隙間に手を突っ込んだ。すると……。


「もしかしなくても、これはお前の歯……だよな?」

「キャフ……」


 指先に当たった異物を、そっと摘み上げれば。それは、僅か1センチ程の乳白色の鋭い破片……紛れもなく、クロユリのものと思われる犬歯の鋒だった。


「しかし、どうしてこんな所から歯が出てくるんだ? うーん……」


 篠崎動物クリニックでの一幕を考えれば、クロユリはどうやら自分でわざと犬歯を折ったらしい事は、薄々と分かるものの。異常なまでに賢い彼女は、無意味に歯を隠した訳ではないだろうと、犬塚は不思議な確信を持ちながらも……どうしてクロユリはここまで賢いのかについて、ますます疑問を抱いていく。

 犬の知性はおおよそ、人間の3歳児程度……訓練次第では、4歳〜5歳児程度とされるのが一般的である。クロユリは警察犬のような特殊な訓練は受けていないようだが、犬塚が出会った最初から躾が完璧だった事を考えても、宗一郎氏は彼女を甘やかすだけではなく、日常的に主従関係を認識させるコマンドを与えていた事は想像に容易い。


「……なぁ、クロユリ。お前……もしかして、宗一郎さんから特別な命令を()()()()()与えられていたりしたのか……?」


 大体、クロユリが何もかもを見通したかのように、要所要所でヒントを提示してくるのは、相手が犬である事を考えれば極めて不自然だった。いくら賢いと言えど、クロユリはどう頑張っても犬である。しかも、特殊な訓練さえ受けていない、ちょっと賢いだけの愛玩犬でしかなかったはずだ。それなのに……彼女が時折見せる賢さは、明らかに犬のそれを遥かに超えている。


(もしかしたら、宗一郎氏は何かを見越して、クロユリに「隠すこと」を教え込んだのかも知れない)


 賢さの余剰分を考えた時、彼女の行動は彼女自身の知性ではなく、訓練によるものだったとしたら。宗一郎はクロユリに「重要な物を隠す」なんて、悪戯にしか思えない躾を普段から施していた事になるか。

 しかし、何のために? もし、クロユリの賢さが宗一郎氏が与えたコマンドによるものだったとしたら。宗一郎氏は何に備えて、クロユリに敢えて「隠すこと」を教え込んだのだろう。


(まさか……宗一郎氏は自分が殺されることも、分かっていた……?)


 犬塚だって、想像が飛躍していることは自覚している。しかし、今しがた掘り出された歯を改めて見やれば。その想像が現実味を帯びるかのように、茶褐色の()()()()()()()がしっかりと残っていた。

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