クロユリの犬歯の行方
「ユリちゃんの歯ぁ? んなもん、ここに来た時からスッパリと折れてたぞ?」
犬塚がクロユリの犬歯がいつかは分からないが、欠けていると伝えてみれば。瓶底メガネの獣医師があっけらかんと答えた。
なんでも、犬の歯は折れやすいそうで。最も可能性が高いのは第四前臼歯と呼ばれる、日常的に使われる特に大きな歯とのことだが……犬の歯が欠けるのは、よくあることらしい。犬は噛む力は人間よりも遥かに高いが、反面、歯のエナメル質(表面の硬い層)が非常に薄い。物を噛み砕きたがる習性の割に、歯は意外にも脆いのだ。
「で、当時のユリちゃんは前脚の方が重症だったからな。歯の方はとっくに血ぃ止まってたし、神経も出てなかったし……何より、本人が痛がっていなかったしで。何か硬い物でも噛んだだけだろうと、敢えて言わなかった」
「いや、それはそうかも知れませんが……だとすると、クロユリの歯は何かを噛んだ拍子に折れたんでしょうか?」
「キャフ……」
よくある事と流されてしまえば、それまでのこと。1本くらいなら健康に支障もないのであれば、犬塚がこれ以上気にする必要もないが……。
「……しかし、改めて言われりゃ、ちっと不自然だな」
「えっ?」
「さっきも言った通り、折れる可能性が高いのは、噛み砕き専用の奥歯の方だ。下顎の犬歯なんて、普通に生活してる分には折れねーぞ。そもそも、威嚇や咬合に使う歯だからな。根元が残っているのを見るに、抜かれたわけじゃなさそうだが」
「だとすると……」
クロユリの犬歯は折られたか、或いは、不自然な使い方をして折れてしまったか……それとも?
「キャフッ! キャフッ!」
「わ、クロユリ……どうした? 急に跳ねて……」
「ヒャフ、キャフ……」
クロユリの犬歯が折れてしまった原因に、犬塚と篠崎が首を捻っていると。クロユリが何かを訴えるかのように、器用に後脚でピョンピョンと跳ね始めた。そうして、何を思ったのか……篠崎のベルトループに引っかかっている、キーホルダーを頻りに掘り掘りし始める。
「おぉ? どした、ユリちゃん。もしかして、ワンワンのマスコットが気になるのかな〜?」
篠崎のキーホルダーに付いているのは、麻呂眉も凛々しい柴犬(赤毛)のマスコット。唐草模様のバンダナを巻いており、心なしか誇らしげにも見える。それでなくとも、クロユリには以前に篠崎からスマートタグをおねだりした前科がある。クロユリのおねだりも慣れたものと、篠崎はマスコットを自慢しつつも、嬉しそうにデレデレとしているが。
「……檀さんは意外と、可愛いマスコットが好きですよね……」
「そうとも。俺はいつだって、可愛いワンコとニャンコラヴなんだぞー。あっ、因みに。こいつは上野のアメ横で買ったんだ〜。薬局の店先に並んでてさー。酒盛り前のお薬を買うついでに、ついつい手が伸びちまった」
パンダにしようか、柴犬しようか散々悩んだ挙句に、柴犬にしたそうだが。どうして薬局に、柴犬のマスコットが売っているのだろう? ……まぁ、それは常々カオスな魅力が迸るアメ横ならではと割り切ればいいか?
(アハハ……檀さんは相変わらずだなぁ。本人もカオスなら、置かれている状況もカオスだ……)
篠崎が所謂「飲み屋街」を悪友と練り歩いているのはいつもの事だし、最近はクロユリ繋がりで堺ともよろしくやっていると聞き及んでいるが。今気にするべきは、篠崎の飲み歩き事情ではない。クロユリの犬歯が折れた理由の方だ。
「おや? どうやら、クロユリが気にしているのはマスコットではなさそうですか? えっと、鍵が気になるのか?」
「クフ……」
犬塚の呟きに「正解」と言いたげに、今度はお利口にお座りをするクロユリ。チラチラと意味ありげな上目遣いをしながら、尚もチョイチョイと「鍵が気になるの」と前脚でアピールしている。
「鍵……鍵? もしかして……!」
「おっ? 何か分かったのか、拓巳」
クロユリは何かと、隠したがる柴ガールである。腹の中にヒントを隠し、スマートタグを隠し持ち、思わぬ形で事件に首を突っ込んできた。そのクロユリが気にする鍵と言えば……。
「まさか、金庫の鍵を飲み込んだ時に折れたのか? いや、もしかして……鍵で歯を折ったのか?」
「……キュフ」
そんな事があり得るのか? いくらクロユリが賢いと言えど、自ら犬歯を折るだなんて、犬の知性の範囲を超えている。それに、仮にそうだったとしても……どうして、クロユリは大事な犬歯を折ったりしたのだろうか。
(分からない……。クロユリは何を伝えようとしているんだ……?)
足元でこちらを見返してくるのは、いつもの狸顔のお嬢様。心なしか麻呂眉をクイと上げながら、まるで試すように犬塚をじっと見つめている。
「クロユリ。お前の歯はどこにあるんだ? 最初にいた訓練場か?」
「……ギャフ」
「違うみたいだな。それじゃぁ、俺の家……な訳ないか。最初から折れてたんだもんな……」
器用に耳をペタンと垂らし、ガッカリして見せるクロユリ。犬塚の言葉を理解していそうな反応を示す時点で、彼女が余程に伝えたい事に神経を注いている事も窺えるが。こうなると、クロユリはタダの犬ではない気がして、犬塚は不思議な気分になってしまう。
(……えぇと、クロユリの犬歯は最初から折れていた。だとすると……)
つまりは、犬塚が保護する前から犬歯は折れていたという事であり、犬歯が落ちているのは、犬塚同伴で立ち入った場所ではないことはハッキリしている。そうともなれば、残る選択肢はほぼ1つしかない。
「事件現場だった東家宗一郎邸……か。クロユリ、そうなのか? お前……もしかして、事件現場に歯を落としてきたのか?」
「キャフ……!」
ピコンと耳を立て、トントンと足踏みをしながら、お座りし直すクロユリ。背筋をピンと伸ばし、尚も訴えかけるような眼差しで犬塚を射抜いてくる。
「分かった、分かったよ。……今日の予定は変更。……お前のお家にお邪魔しようか」
「キャフ! キャフ!」
分かっているじゃない、ご主人。さっきまで篠崎の鍵にお熱だった態度を、ご主人様に向けて発散するクロユリ。そんな様子を……篠崎が羨ましそうに見つめている。
「なぁ、貝沢。この後の予約、どのくらい埋まってたっけ?」
「午前だけじゃなく、午後もビッシリですよ。今日はお出かけは許しませんからね。しっかり働いてくださいよ? 大体、ハメを外すのは休診日だけで十分でしょ」
「ぐっ……! 大体、どうしてこんなに患者さんが多いんだよぅ……!」
多分、立地と変人加減をカバーできてしまう腕前のせいだと思うが。篠崎の恨めしげな視線を受け取りつつ。犬塚は予定の変更と、事件現場への立ち入りの許可を求めるため、真田へ連絡するのだった。




