クロユリの天敵(2号)、再び
「キュフ?」
(この状況、もう普通で片付けていいんだろうか……?)
明くる日。犬塚は「気になる事」を調べるために、事件簿のデータベースを読み漁っていたが。パソコンの画面と犬塚の視線の間には、クロユリの黒々とした後頭部が挟まっている。それなりに気遣いはあるらしく、机の上に鼻先を乗せる格好で、頭を低くしているものの。……膝上に陣取っている時点で、犬塚にしてみたらば「ちょっと邪魔」と言いたくなる状況である。
「ほら、クロユリ。そろそろ、降りてくれ。調べ物が捗らないじゃないか……」
「キュフ! ガフッ!」
イヤだワン。ご主人様のお膝の上がいいワン。
断固拒否を貫く三角耳の間を、犬塚のため息が通過していく。こんな所で「拒否柴」を発動する、お嬢様にやれやれと苦笑いしながら。犬塚は仕方なしに、再度パソコンのモニタに集中する。
(やはり、あったか……。関彩音さんは事故死だったんだな……)
そうして、さして苦労する事もなく……お目当ての登場人物が絡んでいる「轢き逃げ事件」の調書記録を見つめては、ふむふむと読み漁っていく。
関彩音、享年21歳。職業は中学校教諭……となっているが。年齢からして、試用期間中と見て良さそうか。場合によっては、インターン制度の一環で配属されていた可能性もある。いずれにしても、「これから!」という時に不慮の事故でこの世を去ったとなれば……本人もそうだが、姉の豊華もさぞ悔しかったに違いない。
(事件発生時期と、彩華ちゃんの年齢がほぼ一致する……。だとすると、彩音さんは彼女を産んだ後すぐに働いていたのか……?)
彩華は今年19歳だったはず。そして、彩音の轢き逃げ事件発生は約18年前。たった1歳の乳幼児を置いて、こんなにもすぐに働きに出るものなのだろうか?
(豊華さんを頼る……もなさそうか。彼女は彼女で、キャリア一筋な気がするし……)
教員の本格採用は22歳が最低年齢だが、弁護士はやる気さえあれば、17歳からでもなる事ができる。もちろん、それはレアケースであろうが……事件発生時から逆算すると、豊華は当時22歳。彼女もまた、弁護士になったばかりであったろうし、キャリアを積むために精力的に働いていたと考えた方が自然か。
(なんだろうな……漠然とだが、違和感がある……。彩華ちゃんの父親は何をしていたんだ……?)
彩音は出産後間もなく働きに出ている。このことからしても、彩音の子育て事情に父親の存在感は希薄過ぎると言わざるを得ない。もし、父親がいて……彼がしっかりと働いていたのなら。彩音はここまで無理をして働きに出る必要もなかったはずだ。
(もしかして、豊華さんが彩華ちゃんを邪険にするのには……彼女の父親を疎ましく思っているからか……?)
これはどこまでも犬塚の推測の域を出ない、根拠のない考察であるが。病院での一幕で、犬塚は豊華のあまりのドライさに、彼女が彩華については「心底、面倒臭い」と思っているだろうことを確信していた。豊華は妹を称賛する同じ口で、彩華については「彼女の母親を演じるのも疲れた」と言っていたし、何より……上林を睨みつけていた形相の険しさからしても、彩華が生きていること自体を迷惑がっている雰囲気さえある。
……非常に不謹慎な考え方ではあるが。彼女の態度を目の当たりにして、犬塚は思うのだ。豊華にとって、彩華は「汚点」だったのではなかろうか……と。
「なんや、調べ物か? 犬塚」
「堺部長、お疲れ様です。あぁ、あいにくと真田部長は不在ですが……」
「んなもん、知っとるがな。トーマは深山ちゃんを連れて、聞き込みに行っとるんやろ?」
犬塚が捜査本部でお留守番になってしまったのは、偏に、クロユリの存在が故である。もちろん、躾が行き届いているお嬢様のこと。彼女を車の助手席に乗せて捜査に出かけるのも、可能ではあろう。だが一方で、多田見を尾行できなかった背景に、クロユリ連れでは公共交通機関を利用できない身動き辛さが浮上したため、彼自身にも調べ物がある事もあり……今日の犬塚は「待機」を選択していた。
「ご存知だったのですか? それでは、こちらにはどのようなご用件で……」
「それはもちろん、クロユリちゃんを愛でるために、決まっとる! ほれ、鑑識続きで疲れ果てとるおじちゃんを癒してくれや〜」
「ギャ、ギャフッ⁉︎」
真田が不在でも、クロユリに安息の日はない。捜査本部にいる限り、彼女の天敵との遭遇率も必然的にアップする。そうして、見事に捕獲されたクロユリは、抵抗もそこそこに……達観の諦め顔をしながら、天敵のおじちゃん(2号)になす術もなく、モフモフされるのであった。




