クロユリのお出迎えは抜かりなく
「キャフ、キャフ!」
「うん、ただいま、ただいま。クロユリ、いい子にしてたか?」
「フシュッ!」
日本赤十字社医療センターから引き上げて、警視庁本部に戻ってきた犬塚を出迎えたのは……ご機嫌もご機嫌な、クロユリだった。尻尾をブルンブルンと振り回し、足元でピョコピョコ跳ねる彼女は、いかにも可愛らしい。耳をペタンと伏せて、いわゆる「ヒコーキ耳」になっているのを見る限り、撫でてくれというアピールも兼ねている様子。
「よしよし。クロユリ、いい子で偉いぞ」
「キャフン! キャフン!」
クロユリはきっと、署内でもしっかりマスコットのお役目を果たしていたのだろう。自分達を眺める視線が生温かいのにも気付き、犬塚はゴホンと咳払いしてしまうが。息を吐いたついでに、パソコン画面に視線を移せば……頭の痛い内容が2つ程、情報連携と称して飛び込んでくる。
(これはまた、かなりの急展開だな……)
姿が見えないと訝しんでいた深山はどうやら、梓に無理やり付き合わされていた様子。梓が西が丘分室で藤井に追加の事情聴取(というよりは、誘導尋問に近い)をした挙句に、相当に重要な供述を引き出すことに成功したとのことだったが……。
(これで、警視総監の失脚に王手がかかったか。しかし、この先……どうなるのだろう?)
結川逮捕の当日。彼が騒動に乗じて結川がエステティック・ショーコから逃げ出さなかったのには、警視総監からの「お誘い」があったからだったらしい。そして、多田見は関からの依頼を受けた探偵としてだけではなく、警視総監とも組んだ状態でエステティック・ショーコに潜入していたようで……。ここまで複雑な命を帯びているとなると、多田見は普通の探偵でもなさそうだ。しかも、悪いことに……今の彼女は、指名手配犯と行動を共にしていると考えられる。それが警視総監側の指示なのか、彼女の意思なのかは、判然としないものの。……いずれにしても、彼女の動向には最大限の注意を払うべきだろう。
(深山の報告からして、警視総監と多田見さんが協力関係にあったのは間違いなさそうだが……。その契約は、今も続いているんだろうか?)
藤井側の証言と梓が口走った情報だけでは、決め手に欠ける。だが……あいにくと、警視総監には彼女の証言を裏付ける、黒い動きも確認されていた。
エステティック・ショーコのシフト表から、多田見の名前を抹消した事。おそらく、警視総監にとってあの場に多田見がいた事自体が、不都合だったのだろう。当日の状況からして、多田見に連絡を直に取っていたかは怪しいが。いずれにしても、自分の関与に繋がりそうな相手だったからこそ、彼は調書の改竄という暴挙に及んだのだ。
「キュフ……?」
「クロユリ、もうちょっと待ってくれな。まだ少しだけ、仕事が残ってる」
「キャフ、キャフ」
ちゃっかりと、膝上を占領するクロユリの頭を撫でつつ。そっと、周囲を見渡せば。報告の主でもある深山の姿はない。真田もいないところを見るに……この件について、詳細な報告でもしているのだろうか?
(詳しい事は深山に聞けば良いとして……次は、この件だが。まぁ、これはある程度、予想通りかもな……)
今度はメールではなく、ポータルサイトのトップに表示されている「人事」に関する告知に目を通す犬塚。藤井から有力な情報を引き出したのは、よかったものの。実は、その梓の辞令が警視総監によって発令されており、彼女は本日付で懲戒免職となっている。免職理由は「部下の監督不行き届き」……つまりは、結川逃亡の一連にまつわる失態となっているが。……それを発令しているのが、結川逃亡を仕組んだ張本人なのだから、あまりにお粗末過ぎて、犬塚は苦笑いしかできない。
現段階では、警視総監自身を辞職に追い込む事はできないため、彼の権力は未だに健在ではあろうが。最後の最後に姪っ子に全てを被せようとしている魂胆が、彼の情けない為人を如実に表しているようで。一言で言うなれば、この上なく格好悪い。……この惨状では、彼について行こうなんて奇特な者はもういないに違いない。
(さて……。最大の問題は、彩華ちゃんの件だが……)
彼女の手術を担当した医者によれば、一命は取り留めたものの、油断ならない状況なのは変わらないとのことで。その現状に、上林は一旦の安心をすると同時に、不安そうな表情を拭うこともできなかったようだが。対する関豊華は、淡々と彼女の入院手続きを済ませた後は、彩華の容体を顧みることなく病院を後にしていた。この事からしても、豊華の彩華に対する関心は非常に薄いと見るべきか。
(しかし、妙に引っかかるんだよな……。いくら、実の娘ではないと言えど……親戚である事には、違いないだろうに)
豊華の冷徹なまでのドライさに違和感を覚えると同時に、犬塚は彩華に関して、最大の謎が残っている事にも気づく。彩華は豊華の妹……彩音と言うらしい……の娘であることが判明したが。では、その相手……つまり、彩華の父親は誰なのだろう?
(もしかして……関さんがここまで無関心になれるのには、彩華ちゃんの父親も関係しているのか……?)
彩音が亡くなったと同時に、彩華は豊華が引き取った事になっている。だが、順当に行けば、彩華の親権は父親が保持しているはずであり、もし父親抜きで豊華との養子縁組が成立していたとなると……考えられるのは、彩音と彩華の父親が離婚しているか、死別しているか。もしくは……。
(未婚で彩華ちゃんを産んだ……が妥当なセンか)
一連の事件に彩華の父親が誰かなんて現実は、どこまでも無関係でしかない。しかし、彩華はともかく……豊華は「東家会長殺人事件」の容疑者のうちの1人なのだ。非常に曖昧で、漠然としているが。豊華の冷たさを目の当たりにした犬塚は、彼女の冷徹の裏に何かが隠れていそうな気がして。可能な限り、彩華の身辺も洗ってみようと考えていた。