クロユリはマスコットを目指している
(深山、どこに行ったんだろう?)
確か、今日は一緒に聞き込み調査をするはずだったのに……と、犬塚はキョロキョロと室内を見渡すものの。頼れる深山の姿はそこにはない。そうして、いないものは仕方がないと……「東家会長殺人事件」の情報整理をしようと、ディスプレイに視線を戻した。
なお……。
「スピスピ……スピスピ……」
「……」
真田の「粋な計らい」でクロユリはとうとう、署内も顔パスで行き来できるようになってしまっており、あろう事か犬塚のデスク下で呑気に寝息を立てている。しかも、誰が用意したのか定かではないが。……フカフカの犬用ベッドまでしっかりセッティングされており、クロユリにおやつの差し入れをしてくれる署員も1人や2人ではない。
世間様の興味が薄れ始めた事もあるのだろう、新聞記者達が本署の前で屯ろしている事も少なくなってきたため、こうしてクロユリ同伴もスムーズにできるようになったが。……何もかもが特別過ぎるクロユリの待遇に、犬塚は妙に脱力してしまう。
(まぁ、これはこれでいいか……。お留守番をお願いしても、クロユリは納得しないだろうし……)
ペットシッターに篠崎や上林を頼る事も考えたが、仕事の都合とは言え……急に犬を預かってくれだなんて言える程、犬塚は非常識ではなかった。しかも上林に関しては、彼女の家に置いていかれそうになったこともあり、クロユリが素直に大人しくしているとも思えない。それはそれで、多大なるご迷惑をおかけするに違いない。
(って、おや……?)
大人しくマスコットをしているクロユリにこれ幸いと、犬塚は仕事に向き直るものの。まるで彼の集中力に水を差すように、キーボード横で携帯電話がブルブルと震えている。そうして、犬塚が着信画面を見やると……着信画面には「公衆電話」と表示されていた。
「はい、犬塚です」
「い、犬塚さん……ど、どうしましょう……!」
「その声は上林さんですか……? 上林さん、落ち着いて。どうしたのですか?」
「彩華ちゃんが……彩華ちゃんが……!」
常に冷静な上林が取り乱しに取り乱している時点で、相当の緊急事態が発生したのだろう。犬塚がゆっくりと深呼吸をするように促し、ようよう言葉を紡ぎ出すが……彼女の口から出た緊急事態は、犬塚にしても想像を絶するものだった。
「彩華ちゃんが……私を庇って、刺されてしまったんです……」
「刺された、ですって……?」
電話の向こうから聞こえてくる涙声によれば。上林は久しぶりに、彩華と買い物に出かけようとしたらしい。それでなくとも、純二郎の脅迫めいた付き纏いで籠城を余儀なくされていたのだ。……たまには気晴らしをしたいと思うのも、無理はない。
「それに、警察の皆さんが足繁く通ってくださったおかげでしょう。ここ最近は純二郎様の姿も見えなかったので、安心していたのですが……」
だが、純二郎は諦めていなかった。何もない状況が続いたことで、警察官達の気が少しばかり緩んでいたのも、良くなかったのだろう。自暴自棄になった純二郎はあろうことか、「従わぬなら、殺してしまえ」とばかりに上林に凶刃を向けたらしい。
「そ、それで……彩華ちゃんは……?」
「……意識不明の重体です」
「なんですって……?」
駆けつけた警察官によって、純二郎はその場で逮捕。すぐさま救急車も呼ばれたが、運悪く彩華は首元に近い部分を切られており、出血も激しく……止血もままならない状況だった。
「分かりました。とにかく、俺もそちらに向かいます。……上林さんは今、どちらに?」
「日本赤十字社医療センターにおります……。今、彩華ちゃんは緊急手術中で……! ど、どうしよう……彩華ちゃんが、死んでしまったら……!」
いよいよ、堪えきれなくなったのだろう。電話口から、上林の号泣が聞こえてくる。そして、着信相手が「公衆電話」であったことに、犬塚は状況を理解すると同時に……上林の様子からしても、すぐさま駆けつけた方が良さそうだと、上着に手をかける。
(周囲の雑音からしても、ロビーかどこかの公衆電話だろう。病院は基本的に、携帯電話は使用禁止だからな)
病院で電話ができるとなると、ラウンジやロビーなど限られた場所か、備え付けの公衆電話からとなる。いずれにしても、周囲に人の目や耳がある場所であるし、何かと涙が付き纏う場所であるとは言え……あの上林が人目のある場所で号泣するとなると、精神的に追い込まれていると考えるべきだろう。
(しかし、これはどうするかな……)
すぐに向かいますと、返事をしたはいいものの。電話を切って、足元を見つめれば……つぶらな瞳がこちらを見上げているのにも気づき、非常に気まずい犬塚。……いくらクロユリがいい子であっても、病院は同伴していただける場所ではない。
「悪いんだが、クロユリ。ここで少し、待っていてくれるか?」
「キュフ……!」
犬塚をまっすぐに見つめ、眉間にシワを寄せるクロユリ。それでも、何かと聡い彼女は犬塚が困り果てているのにも、器用に気付いた様子。しばらく不満そうな顔を見せていたが……仕方ないわねとでも言いたげに、犬用ベッドの上でクルンと丸くなった。
「ハハ……ありがとな、クロユリ。ちゃんとお迎えに来るから、いい子にしてるんだぞ」
「……フス」
相変わらずの鼻息での返事を受け取って、近くにいた同僚達にクロユリを適度に構ってくれるよう、お願いする犬塚。誰が用意したのかは知らないが。こうしてベッドが抜かりなくある時点で、クロユリのウケは悪くなさそうだ。




