嫉妬するクロユリ
あくる日。やはり自宅待機命令が解除されないので、犬塚は2日目の籠城を余儀なくされていた。それでも、クロユリの体調は相当に上向いているらしく、預かってから3日目でトコトコ歩く程度はできるようにはなっている。あまり長距離を歩けないとは言え……クロユリも散歩は楽しかったようだ。
「よしよし、クロユリ。足に薬を塗ろうな……」
そんなことを言いながら、まずは犬用ブーツを脱がせる。肉球保護用に買い求めたものではあったが、篠塚オススメという事もあり、なかなかに具合もいい。
「……(フス)」
「おっ、お利口だな、クロユリ」
足を触られるのを嫌がる犬は多いが、クロユリは宗一郎にしっかりと躾けられていたようで、犬塚が足を持ち上げても大人しくしている。白いソックスを履いたような彼女の足先は、まだまだ爪が削れ切っていて痛々しい様子だが。保護クリームを塗っても嫌がらないのを見るに、痛みはそこまでないらしい。
「おや?」
薬を塗り終わったところで、ポケットからブルブルと振動が伝わってくる。そうして、画面に表示された着信番号を見ては……相変わらず彼女は仕事が早いのだからと、犬塚は微笑ましく思いながら「通話」ボタンを押した。
「犬塚さん、調べてきましたよ!」
「お、ありがとう。それで……どうだった?」
気分転換もできてご機嫌なクロユリを撫でながら、犬塚は電話越しの相手に問う。
耳元からは、早速調べ物をこなしてくれたらしい同僚・深山のハキハキとした声が響いてくる。しかしながら、彼女も犬塚が「どうしてそんなことを気にしているのか」が不可解な様子。電話越しでも、やや不審げなトーンが伝わってくるが……。
「えぇと、犬塚さんは鍵について、何か気になることが……」
「ギャギャウ!」
「キャッ⁉︎」
深山の言葉が、お嬢様の茶々で途切れる。突然吠え出したものだから、電話の向こうで深山も驚いた様子。短い悲鳴と一緒に、電話を落としてしまったらしい衝撃音がこだましてくるものだから、犬塚も一緒に驚いてしまったではないか。
「わっ⁉︎ クロユリ! ど、どうしたんだよ……」
「ギャウ! ギャウゥゥゥ!」
「ただ鍵の番号を聞こうとしているだけだろ? 何をそんなに怒っているんだ……?」
さっきまであんなにも上機嫌だったと言うのに。犬塚が宥めても、クロユリは鼻筋に皺を寄せては、口元でグルグルと文句を言っている。
「深山? 深山! 大丈夫か?」
「はっ、はい……大丈夫です。すみません、ちょっと驚いちゃいまして。それで、今の声はもしかして……?」
「あ、あぁ。例の重要参考犬なんだが……」
「わぁ! クロユリちゃん、元気になっ……」
「ギャギャウ! ガウ、ガウッ!」
「って、コラ! クロユリ、大人しくしないか!」
「……グルル……!」
……どうやら、クロユリは犬塚と深山が喋っているのが気に入らない様子。しかも、深山が喋り出すと吠えるのを見ているに、お嬢様としては深山の発言権は認められないという事らしい。
「……すまない。どうも、クロユリは女性の声が苦手みたいで……。この後はメールでのやり取りでもいいだろうか?」
「そうだったのですね。でしたら……」
「ギャルルル!」
「だから、クロユリ! 頼むから、大人しくしてくれよ……」
「……(フスン)」
「もしかして……私、嫌われているみたいです?」
「グルルルル……!」
「……よく分からんが、そうかも知れない」
「……」
結局は大した話もできず、深山とはメールでやりとりをすることを決めると……仕方なしに、電話を切る犬塚。その一方で、当のお嬢様はどこ吹く風といった調子。あれ程までにお邪魔虫を演じていたのに、反省の色も見えなければ、むしろ満足そうに胸を張っている。
「……なんだか、変な懐かれ方をしちまったみたいだな……」
ライバルを撃退し、今度は甘えるように犬塚の膝上で丸くなるクロユリ。懐いてくれるのは悪くないし、きっと頼る相手が犬塚しかいないせいもあるのだろう。だが、彼の関心が他の相手に移るとなると、クロユリは途端に不機嫌になるみたいだ。特に……クロユリの女性不信は筋金入りである。
***
(あぁ……あんまりまとまった話もできなかったなぁ……)
意外な伏兵に妨害され、深山は犬塚と大してお喋りできなかったと肩を落としていた。メールボックスには早速、犬塚からメッセージは入っているものの、内容はただ一文。「鍵番号はいくつだった?」のみで、恋心もへったくれもない。
「どうしたの、深山ちゃん。何か、悩み事?」
「えっ? い、いえ、大丈夫です……」
「もぅ……どんよりと暗い顔して〜。ほらほら、スマイルスマイル!」
「あ、あははは……」
そんな傷心の深山に軽薄な様子で話しかけてくるのは、同僚の結川陽平だ。少しばかり光沢のある派手目なスーツを着込んでおり、生息地は警察署よりはホストクラブの方が合っていそうな風情だが。実際に、本人もやや浮ついた言動が多く、警察官らしさはあまりない。
(うわぁ……私、結川さん、苦手なんだよなぁ……)
正直なところ、結川は非常に見た目はいい。均整の取れた顔立ちに、涼やかな目元。外見の利もあり、結川は特に「女性への聞き込み」に起用されることが多い。実際に彼はスルリと彼女たちの心に入り込み、重要な証言を獲得するスキルにも長けているため、あながち警察官に向いていない訳ではないのだが……。
(ちょ、ちょっと! 勝手に覗かないで……!)
だが……何かと、距離が近いのだ。彼に声をかけられて、舞い上がる女性警官ももちろんいるが……深山は彼の無遠慮な距離感が非常に苦手であった。そして今まさに、結川は深山のパソコン画面を見つめては、綺麗に整った眉を顰めている。
「鍵番号が……なんだって? もしかして……犬塚の奴、何かに気づいたのか?」
「かも知れませんね。犬塚さんは現場検証のプロですから。……現地に行かなくても、それなりに思うことがあるのでしょう」
理由はよく分からないのだが、どうも……結川は犬塚をライバル視しているらしい。役目も違うし、持ち味や強みも違うため、何をそんなに張り合っているのか深山にはサッパリ分からないが。深山が犬塚を褒めた途端、結川はいよいよ面白くなさそうに口元を歪める。
「でも、深山ちゃんを使いっ走りにするのは、感心できないなぁ」
「は、はぁ……でも、それも仕方ないと思いますよ。自宅待機は真田部長の指令でもありますし……」
「ハハ、そうだよねぇ。犬っころのお守りを押し付けられるなんて、いかにも犬塚らしい」
「……」
これだから、嫌なのだ。結川に絡まれるのは。
「……すみません、とにかくメールの返事をしたいので、離れてくれません? メールの覗き見だなんて、悪趣味です」
「あっ、ごめんごめん。……それもそうだよね」
少しばかり深山が強めの口調で言い切ると、手練れのプレイボーイは引き際も弁えている。これ以上は宜しくないと判断したらしく、軽やかな調子でその場を離れていくが……。
(……あぁぁぁ。自宅待機は犬塚さんじゃなくて、結川さんの方だったら良かったのに……)
とにかく、メールの返事を出してしまおう。犬塚がどうして鍵番号を知りたがっていたのかは、分からないままだけれど。彼が自宅待機を余儀なくされている間は、代わりに現地調査をこなそうと……健気にも決心する深山なのだった。
【登場人物紹介】
・結川陽平
32歳、身長172センチ、体重68キロ。
犬塚・深山とは違うチームで捜査に参加しており、主に聞き込み調査を得意としている。
モデルないし芸能人だと言われても通用しそうな美丈夫であるが、気位が高く、言動が妙に軽い。
しかしながら、その「チャラついた」風体が却って相手の油断を誘うことがあるようで、それが彼の狙いなのか、素なのかは謎である。