クロユリよりも真っ黒な因縁(2)
一時休戦を選んだ、指名手配犯と探偵。だが、結川が多田見を頼るのはともかく……多田見が結川と行動を共にするメリットはなきに等しい。いや、むしろ相手が指名手配犯である時点で、リスクしかない。
それなのに、多田見は結川に協力する事を選んだ。そして、その選択を引き出させたのは……結川が口走った「恩」……鯔のつまりは因縁によるものである。
(こうして過ぎ去ってみると、かつての私は非力だったわね……)
自分が乗ってきた車の運転を、結川に任せ。多田見は助手席でぼんやりと、「事件現場」となった旧吹上トンネルがバックミラーの中で小さくなっていくのを見つめ……引きずられるように、結川に恩を着せられた事件のきっかけを思い出していた。
多田見が非力だったと、自嘲する「かつての私」。それは両親を地東會に自殺に追い込まれ、天涯孤独になった9歳の少女であった。とてもではないが、1人で生きていける年齢ではないし、多田見は「かつての私」を何も知らない無知な少女だったと回顧する。
親を事件や事故で亡くし、子供だけが取り残された場合は、まずは親戚に声がかかるのが通常の流れであろう。だが、悪いことに……「ヤクザに目をつけられた」と噂された店の娘を引き取りたがる親戚は誰もいなかった。結局、多田見は児童養護施設へ預けられることとなったが……。
(そんな私を助けるフリをして、引き取ったのが……あの男だった)
身寄りのない彼女を引き取ったのは、父の知り合いでもあったジャズ評論家・来栖川湊人。彼は何も知らなかった多田見にしてみれば、父の店にもよく顔を出していた「気のいいおじちゃん」であり、下手な親戚よりも身近な存在でもあった。そうして……一気に家族と家を失い、心細さに凍えていた多田見は、するりと心の隙間に入り込んだ来栖川にもすぐに懐いた。
だが、来栖川は純粋に多田見の父親との友情を大切にしたのではなく、まだ少女だった多田見自身を欲して、引き取っただけに過ぎない。何を隠そう、来栖川は重度の性的倒錯……ペドフィリアの持ち主だったのだ。……彼に引き取られてしばらくすると、多田見は来栖川からの性的虐待に苛まれる事になる。
直接的な性被害はなかったものの。無理やり服を脱がされ、来栖川が集めた同類相手に被写体として泣き続ける日々。まだまだ未熟な少女だった多田見にとって、それは完全なる悪夢であり、トラウマでしかない。そして、撮影会場は室内に留まらず……屋外へと活動の場は広がっていった。来栖川は特に、廃墟や廃道を舞台に好む傾向があり、旧吹上トンネル内の「頭の悪い落書き」の前で泣いた事も数知れず。だが……そんな泣いていたばかりの多田見に、転機が訪れる。
(あの時……関先生に会えたのは、本当に幸運だった……)
世間体を気にする、最低限の良心はあったのだろう。来栖川は多田見が学校に通うことは許可していた。しかして、多田見は羞恥心から「内情」を周囲に明かす事はできず……成長し、中学生になっても勇気が持てないまま。不安と憂鬱とを抱えては、早くも人生を半ば諦めていく。それはある意味で、来栖川の思惑通りであったであろうし……当時の臆病な多田見には彼の犯罪行為を摘発するよりも、自分の心と体を守るのとで、精一杯だった。
しかし……担任教諭の目には、そんな彼女が深い悩みを抱えている事も透けて見えたらしい。当時、インターンでやってきていた関彩音は多田見の悩みに親身に寄り添い、最終的には来栖川からの自立を援助するために、弁護士でもある姉・関豊華に相談してくれたのだ。羞恥心から誰かに相談するなんて発想がなかった多田見にとって、法的手段に訴えるなどと言う彩音の提案は、まさに青天の霹靂。そして、彩音は来栖川の行為は立派な犯罪であり……悪いのは多田見ではないと励まし、一計を講じてくれることにした……。
(って、いけない、いけない。……今はそんな事を思い出している場合じゃないわ)
更に暗鬱な気分にさせられる思い出を、努めて胸の奥に押し戻すと。多田見は手元のスマートフォンでとりあえずの報告を済ませることに決める。このまま外の景色を見ていると、余計なことも思い出しそうで……多田見はふるふると首を振っては、気分を切り替えた。
彩音の一計で、確かに多田見は救われたが。しかし、その彩音はこの世に既にいない。恩師はまるで弁護士の姉に全てを託すように……突然の交通事故で多田見の行く末を見守ることなく、この世を去ったのだ。しかも、まだまだ乳飲児であった幼い娘を残し、彼女の認知問題で揉めていた最中に。……彩音は何もかもを置き去りにして、いなくなってしまった。