クロユリは退屈である
(おかしい……どうして、ないんだ?)
真田に許可を取り、エステティック・ショーコ関係者への聴取をまとめた、調書群を読み漁る犬塚だったが。確実にあの日にも、エステティック・ショーコにもいたはずの多田見の供述調書が見当たらない。それどころか、エステティック・ショーコの従業員リストからも抹消されており、彼女の存在は最初からないものとされていた。
(この抹消は藤井さんが……いや、そうじゃないな。……多田見さんの事は話してくれた時点で、藤井さんの手によるものではないだろう)
もし、藤井にとって多田見が不都合な人物であり、隠し通さなければならない相手だった場合。そもそも、彼女の口から「多田見の勤務期間」についての話が出るはずもない。それはつまり、藤井自身は多田見は事件とは無関係だと思っているという事であり、ごく普通の従業員として認識していたという事だ。それなのに……不自然な程に、調書からは多田見に関する記録が根こそぎなくなっている。
(……しかし、これをやった人物は詰めが甘いらしいな。……シフト表には、しっかり残っているじゃないか……)
現物は事務所内に張り出されていたのだろう……何気なく押収されていたシフト表(データ化されており、犬塚が見つめているのはPDFだが)には、しっかりと事件当日のシフトに多田見が含まれている。この杜撰さからするに、多田見の存在が不都合な誰かさんは、現場検証を担当した人間ではなく、あくまで報告結果を見つめるだけの人物でもあったのかも知れない。
そして、おそらく……その誰かさんは相当に焦っていると同時に、現場検証が何たるかを理解していないのだ。目を通しさえすればすぐに気づけることに気づけず、表向きの修正だけしている時点で、普段は現場に足を運んでいない人物である可能性が高い。
事件の全容を知るには、書類を眺めるだけでは足りないことがいくらでもある。現場の雰囲気、空気感、そして……そこに息づく関係者達の視線に、思惑。どれもこれも、無機質な調書の文字が語りかけてこない事柄だ。
何気なくシフト表が貼ってあるなんて「事務所ではよく見る光景」を想像できないのは、現実に対する実感が欠如しているとしか思えない。でなければ、実際に押収されているシフト表の存在を見落とすこともなかっただろうし、しっかりと「エステシフト表」だなんて分かりやすいタイトルのPDFを素通りすることもなかっただろうに。
(それはそうと……調書の書き換え権限があるとすれば、それこそ堺部長クラスの鑑識課の管理職か……或いは、やっぱり警視総監になるのか……?)
そこまで思い至って、警視総監の人物像を改めて思い描く犬塚。
彼の知る警視総監・園原英臣は端的に言えば、権力の亡者の一言に尽きる。学歴・実績ともにあるとされるが、身近に優秀かつ、実働にも大胆で精力的な真田がいるせいか、どうも保身的・保守的な印象が拭えない。そして、園原梓の強引な抜擢もあり、正義感よりも利己的なイメージも付き纏う。しかも、常に警視総監室の椅子に身を沈めているインドア派と来ている。
(いかん、いかん。たったこれだけで、警視総監の関与を決めつけるのは早い。……ここは冷静になるべきだ)
とは言え……内心でそう律しつつも。ジワジワと広がる疑念のモヤは、犬塚の思考をよくない方、よくない方へと押し戻し、警視総監への嫌疑を深める一方だ。
(……無駄に条件が揃っているのが、良くないんだよな……)
そうして強か首を振りつつ、ここは真田の元へ戻ってしまった方が賢明だろうと書類室を後にする犬塚。それでなくとも、そろそろクロユリの精神状態も心配だ。
(よく分からんが……クロユリは何故か、真田部長には手厳しいみたいだからなぁ……)
元の飼い主だって、同じ年頃の「おじちゃん」だったろうに。今ひとつ、クロユリの趣味嗜好が分かりかねてしまうが。いずれにしても、今は1人で悩むよりも、真田に報告ついでにクロユリを救出した方が良さそうだ。
真田は見た目も物腰も「気のいいおじちゃん」であるが、その実、敏腕の警察官であることは疑いようもない。犬塚にとって、誰よりも信頼できる相手でもあるのだから、広がりつつある疑念を整理する意味でも、上司に相談するのが順当な判断であろう。




