クロユリは被告人に睨みを利かせる
犬塚の意外な質問に、目を泳がせる藤井。そうして、彼女の黒目が泳いだ方向を注意深く見つめては……やはり、引っかかったと犬塚は確信を得る。
(僅かだが……確かに、瞳が左上に跳ねたな。……間違いない。藤井さんは何かを知っている)
しかしながら、虚を突いた質問にも気の利いた返しをしてくるあたり、流石は切れ者の元店長と言ったところ。藤井は藤井ですぐさま視点を正常化させると、尚も警戒を崩さない。
「……あれは彼の独断ですわ。それでなくても、結川は対抗勢力にも追われているようでしたから。実を言えば、私に匿うように懇願もあり、一旦はあちらの部屋を貸していました」
「そうだったのですか?」
「えぇ。……何せ、あの部屋はオーナー用の施術室でしたし。オーナーの復帰が難しい間は、誰も立ち入る心配もありませんでしたので……彼の避難先として、使っていただけです」
そうして……今度は先程の寡黙な様子とは打って変わって、藤井が「対抗勢力」について語り出す。
彼女によれば、結川が復活を目論んでいる地東會ではあるが……歌舞伎町一斉検挙の一件以来、かつての栄光は見る影もなく。彼らのシマでもあった歌舞伎町・銀座界隈は現在、ライバルでもある松陽組が幅を利かせているそうな。そのため、今の銀座は結川がのうのうと出歩ける場所ではなくなっているのだと言う。
「左様でしたか。なるほど……それは初耳ですね」
「結川も言っておりましたが、警察って本当に間抜けな集団なのですね。……その程度の事もご存知ないなんて」
おそらく、藤井はベストアンサーを捻り出せたと、勘違いしているのだろう。警察を嘲るような嫌味を吐き出す余裕も取り戻したようだが……それが犬塚の思う壺である事を、理解できていないのだから、まずまずお粗末である。
(どうやら……隠し事から話題が逸れると、饒舌になる癖は治っていないみたいだな)
藤井の傾向をしっかりと確認し。犬塚は一応の確認で、真田にも目配せをするが……クロユリを撫でる手を休めることなく、真田が目線でしっかりと「ゴーサイン」を出してくるのを見るに、このままある程度は話を進めて良さそうだ。
「おや? 今のはそう言う意味ではないですよ? 初耳なのは、結川が松陽組に追われているという部分であって、松陽組の台頭ではありません。しかし……妙ですね。いくら松陽組とて、結川という人物が地東會の構成員だという事は知らないはずなのですけれど」
「えっ……? それは、どういう意味ですの?」
「そのままの意味ですよ。……結川は偽名ですからね。警察側も結川については、元警察官としか発表していませんし、そもそも彼の銀座での逮捕は公になっていません。……銀座の一件はあくまで、エステサロンの不正摘発のみで処理されていますから。結川の立場はあくまで、リストランテ・ミカ傷害事件での指名手配犯として逃走中の状況から、表向きは変わっていません」
「そ、そうだったのですね……」
おそらく、藤井は知らされていないのだろう。エステティック・ショーコの事件がどのように報道され、どのように処理されたのかを。そして、名前付きで発表された逮捕者が、たった2名だったことも……知らされていないのだ。
そう……逮捕者として発表されたのは、祥子と藤井のみ。大手エステグループの崩落というビッグニュースの陰で、警察はまんまと都合の悪い醜聞を揉み消した。結川の逮捕は秘密裏に処理され、彼の逮捕を知るのは一部の警察官か、それこそ目の前の藤井くらいのもの。そして……結川という警察官が、有川という地東會の構成員と同一人物だと知る人間は、更に限られる。
(そして……このお膳立ても、警視総監の手によるものかもしれない、と……)
銀座であれ程までに速やかに逮捕作戦が展開されたのは、内々にやりとりがあったのと同時に、結川の存在を隠すためでもあったのだろう。そして……そんな力技で事件を捻じ伏せられるのは、それこそ警視総監くらいのものだ。
「ですので、彼らは特定の人物が漏らさない限り、知らないはずなのです。警察官だった結川が、実は地東會の構成員で……かつ、本名が有川であることを」
「……」
「もし、結川が松陽組に追われている事を名目に、あなたに保護を求めてきたのなら。……それを松陽組に漏らした人物が、他にいるということになりますね。……今のご様子ですと、藤井さんはご存知なかったようですから。結川が偽名だったことを」
「そ、それは……」
先程までの余裕から一変、藤井は明らかに動揺し始めている。明らかにやつれている彼女を、これ以上追い詰めるのは酷だろうと思いつつも。……犬塚も冷酷になる事を決めると、改めて揺さぶりをかける。
もし、結川が本当に松陽組に追われていた場合。藤井以外の誰かが、結川の事実を松陽組へリークしたことになる。
だが……その可能性は低いだろうと犬塚は考える。なぜなら、兼ねてから松陽組という組織は不都合な相手を沈めるのに、手段を選ばない傾向があるのだ。もし、彼らが結川=有川である事を知っていたのなら。エステティック・ショーコに逃げ込む前に、結川を始末しているに違いない。何せ……今の銀座は彼らのシマだ。縄張り意識の強い彼らが、自分のシマに入り込んだ反乱分子を、易々と見逃すはずがないのだ。
なので……結川が保護を求めていた、というのは藤井の嘘だろう。そして、そんな嘘をついた理由はただ1つ。取引相手の正体を隠したいから、に尽きる。
「その上で、改めて質問です。……あの時、結川にその場で待機を提案したのは、誰でしたか? あの時……誰が、結川やあなたに取引を持ちかけましたか?」
「言えません。……黙秘いたします」
だが、藤井はここで被疑者の権利を振りかざしてくる。黙秘権の行使だ。これをされてしまったらば、いくら取り調べと言えど、供述の強要はできない。
黙秘権は捜査中の被疑者はもちろんのこと、罪状が固まり切った被告人にも認められている権利。被疑者段階(起訴前)であれば、黙秘を選択することで逮捕・勾留の可能性が高まるため、状況によっては得策とは言えないが。……藤井は既に、罪状が出揃った被告人まっしぐらな状態。逮捕済みである状況では、喋りたくないことを話さなくていいというメリットだけが残る。
(……やはり、そう来るか……)
藤井の判断が彼女自身のものなのか、あるいは、誰かの入れ知恵なのかは定かではない。しかしながら、黙秘すると言われてしまった以上は、無理強いもできない。さて……どうしたものか。