クロユリは意外と重い
「真田部長、本当に大丈夫ですか? 俺とクロユリは、車で待機の方が……」
藤井が勾留されている西が丘分室に、着いたはいいものの。考えてみれば、クロユリ同伴で入場するわけにはいかないと、真田に当然の疑問を投げてみれば。彼から返ってきたのは、俄かに信じられない決定だった。
「そこはきちんと話を通してある。クロユリちゃんだけ車内に置くわけにもいかんし、かと言って……犬塚にも来てほしいしな。だから、クロユリちゃんは警察犬扱いで、一緒に入れてもらうことにした」
「いや、待ってください……。クロユリは嘱託警察犬ですらありませんが……」
いくら賢いとは言え、クロユリは警察犬としての訓練は全く受けていない。頑固なまでに「マテ」はできるし、犬塚の指示であれば「スワレ」・「フセ」も完璧に対応する。だが、拘置所に入場できるかどうかの判断基準としては、あまりに杜撰だと言わざるを得ない。
「ま、その辺は私の人徳が成せる力技、だな。……色々と急を要することもあり、特別措置をとってもらう事になった」
「そ、そうですか……。であれば、クロユリ。……大人しくしているんだぞ」
「キャフ」
セダンから颯爽と降り立ったクロユリを、すかさず犬塚が抱っこする……のではなく、犬塚の腕よりも先に、真田の腕がクロユリを抱き上げる。その様子に……あぁ、なるほどと、犬塚は苦笑いを浮かべてしまう。
「ギャ、ギャフ⁉︎」
「ふふふ……だから、クロユリちゃん。オジちゃんと一緒に行こうな〜」
「キャフ……! キャフ……!」
想定外の抱っこに、慌てふためくクロユリ。チラチラとご主人様に訴えるような視線を送ってくるが……お生憎と、犬塚には真田の決定を覆す権限はない。できることと言えば……。
「……真田部長、重たくありませんか? いくら小型犬とは言え……クロユリは9キロ程あります。辛くなったら、すぐに仰ってください」
「うむ、そうだな。その時は交代する事にしよう」
抱っこの交代を促すことくらい。クロユリは標準的なサイズの柴犬である。いわゆる「豆柴」ではないため、しっかりとそれなりの体重がある。小柄なように見えて、米袋10キロとほぼ同じ重さのクロユリを長時間抱っこするのは、結構きついものがあるだろう。
(とは言え、リッツよりは遥かに軽いのだけど)
余談だが、生前のリッツ号の体重は28キロ程。クロユリの約3倍の重さであった。正式な警察犬だった彼女は抱っこで移動なんて、甘えは許されない立場ではあったが……犬塚に戯れることくらいはあったし、その際に抱きつかれた時の重さたるや。……米袋10キロの比ではない。
(はは……クロユリ、今日は飛んだ災難みたいだな……)
それはさておき。車内でもあれだけベタベタしていたのに、真田はクロユリ成分の補充が足りていない様子。遠い目をし出したクロユリに、またも犬塚は心の中で手を合わせていた。そんな彼女には、今晩は大好物の豚バラ肉(カリカリ焼き)を献上した方が良さそうだ……と、久しぶりに夕飯のメニューに思いを馳せつつも。結局は、自分もクロユリのお世話が楽しいのだから、呆れてしまう。
そうして呆れついでに、受付で用向きを伝えてみれば。本当に話を通してあったらしく、真田の名前を出した途端に、恭しく奥へと案内される。そのあまりの呆気なさに、犬塚はとうとう呆れるのにも慣れてしまった。
(人徳が故の、力技……か。そう言えば、結川の立川送りも警視総監の力技かも知れない、だったか)
取調室に通され、仕方なしに用意されていた椅子に腰を下ろすが。犬塚は警察組織の権力という、得体の知れない強制力……特に警視総監の特権について、深く考え込んでしまう。
《ここまでビューンとゴリ押しできんのは、お偉いさんの特権やで》
堺が「お偉いさんの特権」等と、警視総監の関与を仄めかしてからと言うもの。犬塚の中で、警視総監・園原英臣の人物像がジワジワと黒く染まっていく。
考えてみれば、ヒステリー気味でどう考えても不足が目立つ園原梓を取り立てたのも、警視総監のコネありきだったのだ。犬塚自身は数える程しか、警視総監とは直接顔を合わせた事はないが。数少ない顔合わせでも、やや尊大な印象を受けたことだけは、薄らと覚えている。
「……お待たせしました。対象者をお連れしました」
犬塚が警視総監・園原英臣の人物像に、思案を巡らせていると……その思考を途切れさせるように、刑務官の声が響く。それと同時に、連れられてきた藤井が席に着くが……明らかにやつれている様子に、大丈夫なのだろうかと、犬塚は心配してしまう。
「お久しぶりですね、藤井さん」
「……そうですわね。お久しぶりです」
「ところで……」
「……必要なことは既に、何度もお話ししていますが。まだ、何か?」
真田が愛想良く話しかけるものの、藤井の態度は硬い。しかしながら、真田は積極的に実地捜査にも参加してきた、熟練の警察官でもある。当然ながら、藤井の聴取内容には目を通してあるし、彼女が言う通り……表向きは必要な情報を吐き出している事も、理解している。しかし……。
「いえ、まだ足りない部分があるので、こうして足を運んでいるのです。あなたが隠している重要な事を、是非に吐いて頂かなければなりません」
「……」
クロユリを抱っこしたままの姿勢で、ピリピリとした空気を器用に醸し出し始める真田。一方で……クロユリも、なんだかんだで乗り気らしい。無駄に騒ぐ事もなく、キリッとした表情を作っては、藤井を射抜くように見つめている。
「犬塚。被告人に立川の事件について、説明してやれ」
「承知しました」
「藤井さん」ではなく、「被告人」。敢えて冷たい呼び方をすることで、真田は取調室の空気さえも支配していく。それでなくとも、藤井だってよく理解しているはずだ。……正面に陣取る気の良さそうなオジさんは、油断ならないベテラン刑事であると言うことを。
「……という次第でして。現在、結川は武器を所持したままで逃走しております」
「だから、何だとおっしゃるのでしょう? 結川を逃したのは、そちらの落ち度ではなくて?」
「そうですね。そこに関しては、否定しません。しかしながら、結川の身柄は早々に確保せねばなりませんので……彼が行きそうな場所に、心当たりは……」
「それは既に、お話ししてありますが?」
「あぁ、そうでしたね。では……」
しかしながら、結川逃走のあらましを伝えても尚、藤井は警戒を崩さない。そして、犬塚も負けじと標準的な対応をしつつ……真田の狙いと思われる、質問をぶつける。
「質問を変えましょうか。……エステティック・ショーコでの逮捕時、どうして結川はあの部屋に籠っていたのでしょうか? あの状況であれば、いくらでも逃げる機会はあったはず。それなのに、彼はエステ内に留まっていました」
「別にそれは、大した問題ではないのでは? 特段理由も……」
「いいえ、理由はあるはずです。結川にも私達があの場に踏み込んでいることは、聞こえていたことでしょう。それなのに、その場で待機を選んだとなると……誰かの指示があったか、何かの計画があったか。いずれかが考えられます。そして……それは、あなたの判断ですか? それとも、結川自身の決断でしたか? 或いは……別の誰かの提案ではありませんでしたか?」
何もかもがお膳立てされていた、銀座での逮捕劇。そして、何もかもが不自然だった、立川での逃走劇。明らかに仕組まれている何かを嗅ぎ取ったからこそ、真田は急を要すると判断し、こうして強制的に藤井への取り調べを敢行した。犬塚には「お偉いさんの特権」がどこまでの影響をもたらすのかは、分からない。だが……警視総監ともなれば、被告人への処遇にも強引に介入できる可能性もゼロではないだろう。
そう……藤井の身に、何かがあってからでは遅いのだ。