クロユリは犬塚にベッタリである
「犬塚さん、その多田見さん……ですが、何かお心当たりが?」
「えぇ。実は……」
彩華から意外な名前を聞かされて、犬塚は難しい顔をしてしまうが。そんな犬塚に、向かい側から上林が問えば。彼女達相手に隠す必要もないか……と、犬塚はアッサリと口を割る。上林も疑うことなく、調査の担当者を教えてくれたのだ。ここはこちらも素直に、少しはネタを披露するのも礼儀というものだろう。それに……。
(ある程度、餌を撒いておくのが効果的な場合もある。もし、想定外のルートで情報が漏れたとすれば……)
その時は、本格的に上林を疑えばいいだけの話だ。
多田見が職場に溶け込んでいたのを見るに、彼女が現場にいたという事実は調べればすぐに分かること。特段、勿体ぶって秘密にするような内容でもない。
「……と、言うわけでして……」
「そうだったのですね。だとすると、関さんの依頼はまだ継続中だったということでしょうか?」
「いいえ、おそらく調査自体は完了していたのではないかと。……例の調査結果には、しっかりとエステティック・ショーコの裏事情が記載されてもいましたし、摘発に踏み込むのも十分に可能な内容でした。依頼主に提出するにも、問題のないものだったかと」
「では……」
「……えぇ。おそらくですが、多田見さんには他に調査しなければならない事案があったのでしょう。……調べ尽くされたエステティック・ショーコ関連以外の内容で」
エステティック・ショーコでの彼女の様子を見るに、多田見はしっかりとスタッフの制服を着込んでいたし、藤井の対応からしても信頼もされていたように思える。そのことからしても、彼女は潜入調査自体に慣れているのかも知れないが……いずれにしても、相当に器用な人物であることは間違いないだろう。
「と、失礼。……上林さんのご相談に乗る事の方が、先ですよね」
このメンバーで多田見の素性を掘り下げたところで、得られる情報はあまりないだろう。ここは本来の相談内容に軌道を戻しつつ、犬塚は1つの提案をしてみる。
「先程のお話からしても、まずは巡回強化が妥当でしょう。こちらの方で周辺のパトロールを徹底するよう、伝えておきます」
「ありがとうございます……! そうしていただけると、助かりますわ」
至極無難でありながら、手堅い提案に上林は嬉しそうに声を弾ませるが……一方で、隣の彩華はやや不服な様子。危険人物はさっさと処理して欲しい、が彼女の言い分なのだろう。
「でも、この間は本当に危なかったのよ? すぐに逮捕できないの?」
「それは難しいんだよ、彩華ちゃん。被害者側の言い分だけで、安易に逮捕はできないものなんだ。でも……これだけ、分かりやすく上林さんに接触しているとなると、遅かれ早かれ警告は行くだろう。その上で、尚も上林さんを狙い続けるのなら、もちろん逮捕もあり得るよ」
話にあっただけでも純二郎は上林に対し、執拗な付き纏いや、待ち伏せを繰り返している。これは立派なストーカー行為に該当するし、更に、一方的に犯人だと決めつけて言うことを聞かせようとしている時点で……脅迫罪もセットだと見ていい。これらの証拠を揃えるか、あるいは……犯行現場を押さえれば、その場で現行犯逮捕は十分にあり得る。
「……うん? おや……?」
そこまで話し込んだところで、ブルブルと携帯電話が鳴っているのに気づく、犬塚。着信相手を見れば、電話の主は真田のようだ。
「すみません、上林さん。電話に出ても、いいでしょうか?」
「えぇ、もちろんですわ。どうぞ」
そうして、クロユリを膝上から下ろそうとするが……彼女は頑として、どこうとしない。どうやら、前例をしっかり覚えているようで、絶対に降りるもんかと犬塚の膝上で駄々をコネ始めた。
「ギャウン、ギャウン!」
「いや、今日はもう置いていかないから……」
「ギャフ! グルルルル……!」
「……分かった、分かったよ。……このまま電話に出ればいいんだな?」
お嬢様は疑り深い上に、執念深い。そんな犬塚とクロユリの様子を上林と彩華はクスクスと笑いながら見つめているが。電話に出た犬塚の表情が、見る見る内に険しくなるにつれて……只事ではない雰囲気も感じ取る。
「はい……はい、えっ? なんですって⁉︎」
「キャ、キャフ……」
頭上で響くご主人様の声色に、さっきまでワガママだったクロユリも、途端にオロオロし始める。もしかして、自分が何か悪いことをしてしまったのではないかと、キュンキュンとか細く泣き始めるが……。
「……承知しました。すぐにそちらに向かいます。それに……部長に相談したいこともございますし、こちらはこちらで急を要する事態になっていまして……」
真田との会話を止めることはないが、膝上で泣き出したクロユリの頭を、落ち着かせるように撫でる犬塚。そうされて、自分が悪い子だからご主人は難しい顔をしているわけではないと理解したのか……先程までのしおらしい様子を引っ込めては、今度はクロユリが犬塚の膝上で丸くなり始めた。
「もしかして、上林さんの事かね?」
「その通りです。……お話をお伺いする限り、早めに手を打たないと、取り返しのつかない事になりそうです」
「そうか、分かった。そちらの話ももちろん、聞くさ。だが……」
「えぇ、そうですね。……そちらの事案の方が、圧倒的に緊急性が高いのは間違いないでしょう」
満足そうにクフクフと鼻息を漏らす、クロユリの姿に脱力しつつ。神経にはピリリと緊張を巡らせては、大変な事になったと犬塚は内心で嘆く。どうしてこうも……警察はいとも簡単に、彼を取り逃してしまうのだろう。
「申し訳ございません、上林さん。……少々、厄介な事件が発生したようでして」
「承知しました。私の方は大丈夫ですので、是非にお仕事を優先してください」
「い、いえ、上林さんのご相談に乗るのも、仕事なんですよ? もちろん、先程のパトロール強化については即刻手配できるよう掛け合ってみます」
そうして、犬塚は躊躇いもなく支給携帯電話の番号をメモに書き写し、上林に渡す。本来であれば、一個人に携帯電話の番号を明かすのは感心できないことではあるが……協力者の意味でも、容疑者の意味でも、重要参考人である上林とのコネクションはある程度、保っていた方がいいだろうと犬塚は考えていた。それに……。
「ありがとうございます。……こちらの番号は、本当に緊急性のある時だけに活用いたしますね」
「えぇ。もし何かあれば、緊急でなくともすぐにご連絡を」
上林も心得ていると見えて、プライペートで犬塚を呼び出す気はないらしい。犬塚が電話番号を寄越した意図を理解しているようで、きちんと一線を引いてくる。この辺りはやはり、一流企業の秘書ならではの心得というものなのかも知れない。
「それでは、俺はこの辺で失礼いたします。彩華ちゃんも、頼んだよ」
「もっちろん。直美さんが遠慮するようだったら、グイグイ行くんだから!」
「いや、グイグイは行かなくていいんだよ? 危ないことは避けて欲しいな」
「えぇ〜? 今のは、そういう意味じゃないんですけど〜」
「……?」
やっぱり、今ひとつ彩華の真意が理解できないのだが。これはやはり、難しいお年頃のせいだろうか?
そんなことを考えながらも……ここはとにかく行かねばと、犬塚は上林宅を後にする。もちろん……。
「……結局、お前も来るんだな?」
「ワフ!」
「分かった、分かった。いい子にしているんだぞ?」
「キャフ!」
誰よりも難しいお年頃なお嬢様も、一緒である。子連れならぬ、犬連れになってしまったと、犬塚は苦笑いしてしまうが。しっかりとクロユリの首輪にリードを付ければ、どことなく勇気づけられるのだから、不思議なものである。