クロユリみたいな、真っ暗闇で
物々しい車体を揺らしながら、指名手配犯を乗せた護送車が走っている。静まり返った闇夜をただ一点、ヘッドライトで照らし……尚も、休むことなく漆黒を往く。
(さて……俺はどこに連れて行かれるのやら)
どこへ行くのか、知らされていないし……今は知る必要もない。両手首で鈍く輝く銀色を見つめながら、結川は内心でほくそ笑んでいた。まさか、あの場所に場違いにも程がある犬塚がいるなんて思いもしなかったし、本命が到着する前に捕まるだなんて、予想外でしかないが。……結果は計画通りなのだから、問題ない。
(奴の提案では、そろそろか……)
結川の確保は午後3時頃。それから、かれこれ5時間は走りっぱなしだ。
途中に休憩を数回挟んだが、それはあくまで運転手の気まぐれであって、凶悪犯への配慮によるものではない。それでも、申し訳程度の軽食を与えられて……結川は比較的穏やかに、精神的な余裕を保っていた。
もちろん、彼とて普通の状況であれば、もっと憔悴しているに違いない。指名手配されていた上に、まだ殺人までは犯していないとは言え……エステティック・ショーコの麻薬取引に関わっていた上に、例の前科や身の上まで明らかになっているともなれば。扱いは既に凶悪犯であろう。有体に言えば、結川の境遇は「お先真っ暗」である。そんな状況で平静を保っていられるのは、余程の剛の者か……或いは、逃げ道を知っている者か。
「……停まったな。まさか、また休憩か?」
「いや、そうじゃない。……上のご命令でね。ここで降りろ、有川」
わざわざ「う」の音を強調するように、呼ばれて。結川は仕方ないと、肩を竦める。だが、嫌味っぽい口調の割には、すんなりと結川の手錠を外すと……付き添い代わりの運転手が呆気なく、護送車の扉を開いた。
「で? 俺はどうすればいいんだって?」
「……逃げろ、だとさ」
「んな、無責任な。狭い日本で逃げた所で、逃げ切れないだろ? ……日本の警察は意外と、執拗で狡猾だからな」
そう、日本の警察組織は出鱈目なようでいて、非常に統率が取れている。こうして結川を逃がそうとするのだから、トップは腐っているようだが……少なくとも、身近にいた警視長が優秀であったことを思い出し、そのついでに憎たらしい警察犬の顔を思い浮かべては、結川はギリと歯を鳴らす。いずれにしても、彼らは単身で放り出されて逃げられる程に、甘い相手ではない事だけは確かだ。
「はいはい、お坊っちゃまには悪いが……駄々をこねられても、俺にはどうしようもないもんでね。悪いが……」
「それも、そうだな。少なくとも、あんたとはここでお別れになりそうだし」
「へっ?」
カチャリ。饒舌な警察官の額の上で、嫌な音が響く。そうして、間髪入れずに……先程まで嘲るように結川を「お坊っちゃま」呼ばわりしていた不届き者の額に、風穴が空いた。
「……さて、と。……ここまでは指示通りのようだな。……えぇと、確か……」
何もかも、示された通り。座席に拳銃が隠されていたのだって、彼の提案通りだ。こうも至れり尽くせりだと、かえって薄気味悪いと、勘繰ってしまうが。それも当然か……と、結川は人知れず皮肉めいた嘲笑を漏らす。
結川は何も、理由もなしにオーナー専用の施術室に籠城していたわけではない。とある人物から提案を持ちかけられたと同時に、その場で待機を指示されたからだ。
藤井を頼ったのは、結川の旧知の人脈によるものだったが……厄介な事に、宿敵は結川が藤井ではなく、東家祥子に会いに行くだろうと踏んだらしい。そして……もし、少しでも彼らの動きが早かったなら。ここまでスムーズにコトを運ぶ事はできなかったに違いない。
(想定外は犬塚の乱入くらいだが……誤差の範囲だ。気にする必要もない)
犬塚の予想通り、結川はエステティック・ショーコの協力者をネタに、警察を脅すつもりでいた。しかも、現在のエステティック・ショーコは自分に惚れている藤井が牛耳っている。脅迫の経路として藤井を活用するのは、ある意味で自然な流れでもあった。しかし……藤井が交渉を仕掛けたところ、いい意味での想定外が発生する。あろう事か、警視総監自らが取引を持ちかけてきたのだ。
(まさか、ここまで警視総監が身内に甘いなんて、思いもしかなったが。……まぁ、いい。そのお陰で、俺は自由になったんだから)
警視総監・園原英臣は対外的なアピールもあり、我が娘のように目をかけていた園原梓を警視正に取り立ててはみたものの。彼女のポンコツ加減は、彼の想像を遥かに超えていたらしい。しかし、ほぼ独断でポストを与えた手前、梓を降板させるのは無様な上に、自身の評判にも多大な傷が付く。そこで……彼は、結川を使って彼女の手柄を捏造する事にしたのだ。
警視総監からの提案。それは……結川を逃す代わりに、麻薬の密売ルートを教えろというもの。未だに脈々と続く麻薬取引の顧客はエステティック・ショーコだけではないだろう、というのが警視総監の読みであり……それは確かに、見事に当たっている。そして、その麻薬ルートの洗い出しと関係者の逮捕を梓にさせることによって、彼女に箔付けしようという魂胆のようだ。
(……確か、逃げ道も用意してあると言っていたな……)
であるならば……と、窮屈だったはずの護送車に逆戻りし、後部座席のシートの切れ目を探る。すると……。
「フン……マニラ行き、か。これまた、ベタな移住先だな」
シートの切れ目から出てきたのは、フィリピン・マニラ行きの航空券と偽造パスポート。写真を見ると、目元の涼やかさはそのままだが……鼻下部分からは少しばかり、加工したのだろう。結川とはやや雰囲気が異なる顔写真が貼付されている。そして……封筒には、ご丁寧にマスクまで同封されていた。
「ふん……こんな安っぽい罠に、俺が引っかかると思っているのか?」
しかしながら、結川にはこの誘いに乗る気はない。どうせ……彼らは結川を再逮捕するつもりでいるのだろう。航空券まで手配されている以上、彼らが行き先を知らない方が不自然だ。そうして結川は警察の裏をかいてやると、ほくそ笑む。非常に馬鹿げていて、愚かな事に……身内の手柄が欲しいが故に、警視総監は凶悪犯に自由を与えたのだ。しかも……警察官1名を犠牲にするという、非人道的な方法で。
(いずれにしても、俺は殺人犯への昇格も確定だな。……熱りが冷めるまで、大人しくしておくか……)
そうして、この場合は空に飛び立つのではなく、地下に潜った方がいいだろうと……闇夜に紛れ、結川は音もなくその場を去っていった。
【登場人物紹介】
・園原英臣
警視庁警視総監、59歳。身長171センチ、体重82キロ。
日本警察のトップであり、東京大学法学部卒のエリート官僚。
秀逸な頭脳を持ち、決断力にも優れているが、妻子ともにないためか、姪である園原梓を自身の娘のように溺愛している。
女性キャリアの積極的採用・躍進の名目の元、梓を取り立ててみたものの……彼女の成績や実績が芳しくないこともあり、自身の評価も下げているのが目下の悩みらしい。




