電話越しのクロユリ
エステサロンの終幕を見つめながら……犬塚はふと、上林の相談に乗る約束をしていた事を思い出す。時計を見やれば、午後3時を回ったところだ。彼女は電話でも良いと言ってくれていたが……雰囲気からするに、会って直接話をした方が良いだろうか。しかし……。
(……会いに行ったのでは、余計に名残惜しくなるよな……)
上林に会いに行くのは、構わない。だが、彼女の家には強引に忘れようとしている、お嬢様も住んでいるのだ。預けた今日の今日で再会したのでは、少々堪え性がなさ過ぎる。
「犬塚、どうした?」
「実は、上林さんから相談されていたことがありまして」
「うむ? 上林さんから? クロユリちゃんとは、関係ない事か?」
「おそらくは。話は電話でも良いと、言ってもいましたが……」
《こちらは間違いなく、警察に相談するべき内容ですわ》
しかしながら、上林はこうも言っていた。もちろん、クロユリの処遇に警察が無関係だとは言い切れないものの。今までの一線を引いた対応からしても、上林は私情や些細な事で相談を持ちかけるタイプではないだろう。
きっと、彼女は本気で何かに困っているのだ。それこそ、警察を頼らなければならない程の何かに。
「真田部長、すみませんが……」
「あぁ、皆まで言わなくとも構わんよ。私はこのまま、状況整理と現場の指示をせねばならんし。先に車に戻って、電話すればいいだろう。しばらくしたら、私も車に戻るとするさ」
「お気遣い、ありがとうございます」
何から何まで気が利く真田の了承を得て、犬塚はいそいそと車に移動する。そうして運転席に腰を落ち着けると、早速とばかりに教えられていた電話番号を呼び出した。
「もしもし、上林さん? すみません、遅くなりまして……」
「いいえ、大丈夫ですわ。……お忙しいところ、ご連絡いただきありがとうございま……キャァッ⁉︎」
「えっ……上林さん? 上林さんッ⁉︎ 大丈夫ですか⁉︎」
上林の柔和な声が突如、悲鳴に変わる。そんな電話越しの緊急事態に、犬塚は懸命に上林を呼ぶが……。
「ガフッ、ガフッ! キャフッ!」
「……」
すぐさま聞こえてきたのは、上林を押しのけて受話器を占領したらしい、お嬢様の怒声。ヴルルルとちょっぴり野太い唸り声が混ざっているのを聞く限り、かの黒柴嬢は相当にご立腹のようだ。
「って、クロユリ……。どうした? 何をそんなに怒っているんだよ……」
「キャフキャフッ! グァ!」
「えぇと、クロユリ? 少し、落ち着け? とにかく、上林さんと話をさせてくれないかな……」
「……フス」
不満げな鼻息が聞こえてきたところで、ようやくクロユリからお喋り権を奪還した上林が、電話口に戻ってくる。それでも、彼女が時折「いい子だから」と呟いていることからしても、クロユリは堂々と上林の膝上に居座っている様子。そんな情景をありありと想像しながら、犬塚はアハハと乾いた笑いを漏らしてしまう。
「ところで、上林さん。ご相談とは、どのような事でしょうか」
「はい。実は……最近、純二郎様から不穏な接触を受けておりまして……」
「純二郎氏から?」
さも困ったと、上林が弱々しい声で語ることには。純二郎は上林を宗一郎殺害の犯人だと決めつけているらしく、罪を認めろだの、犯行を暴かれたくなかったら言う事を聞けだの、毎日のように嫌がらせの電話をかけてくるようになったらしい。その上、最近は彼女の自宅付近を彷徨いているそうで、日常的な買い物をするだけでも非常に不自由している……との事だった。
「いや、ちょっと待ってください。純二郎氏は何をもって、上林さんを犯人だと言っているのでしょうか? 証拠はあるのですか?」
「純二郎様の中では、証拠がある事になっているようですが……少なくとも、私には彼の言う証拠は有効なものではないと思えます」
「それで……純二郎氏の言う、その証拠とは?」
「……私がユリちゃんを預かったことがあるのが、証拠だそうです」
「はぁ?」
思わず間抜けな声を出してしまい、すぐさまコホンと咳払いで誤魔化す犬塚。しかしながら、「クロユリを預かったことがある」だけで、上林を犯人扱いとは。純二郎も随分と突飛なことを言い出したものだ。
「……まぁ、クロユリの後見人になる可能性が一番高いのは、彼女を預かったことがある人間だろうと言うのは分かりますし、宗一郎氏が殺されて最も得するだろう人間だ……と、考えるのはごくごく一般的な推察でしょう。しかし、それには宗一郎氏が亡くなる前から、遺言書の中身を知っているという前提条件が必要なのですが……」
宗一郎の秘書だった上林であれば、遺言書の中身をあらかじめ知っていた可能性はゼロではないだろう。会長・東家宗一郎にとって、最も近い存在で、最も彼を知る人物。それが、上林直美ではある。しかし……。
「……私には遺産を相続する意思はありませんし、遺言書の中身も会長が亡くなってから知ったばかりです。もちろん、遺産相続の側面から見れば、私は最有力候補ではあるのでしょう。ですけど……恩人でもある会長を殺すなんて、私には絶対にできません」
電話越しでも感じる、上林の強い意思……と、じわじわと滲む悔しさ。そんな彼女の気弱な声に、犬塚はやるせなさげにため息をつくと同時に、とある決心をする。
「ご相談の内容は、把握しました。いたずら電話を繰り返すのは、迷惑防止条例違反になりますし……自宅付近を彷徨いているともなれば、ストーカー規制法に引っかかる可能性もあります。これは確かに、我々が対処するべき内容でしょう。……差し支えなければ、明日にでもそちらにお伺いしようと思います。いかがでしょうか?」
「はい……! もちろん、お願いいたします。これでは、外出もままなりません……」
それはさぞ、不便だろうな。短期間の籠城でさえも気詰まりだったことを思い出し、犬塚は上林を気の毒に思うついでに、彼女に同情してしまう。それにしても……。
(クロユリが転がり込むと、外出禁止になるジンクスでもあるんだろうか……)
上林との通話が終わるまで、フシュフシュと強めな鼻息で自己主張していたクロユリの様子を思い浮かべ、またも乾いた笑いを漏らしてしまう犬塚。そうして、彼女の丸顔を思い出した瞬間……どうにもこうにも、いつかの籠城期間が懐かしく感じるのだから、犬離れはなかなかに難しいと自嘲するのだった。