クロユリのご主人様は、たどり着く
「逃げて! お願い、逃げてッ!」
耳もつんざく様な懇願が、誰に対してのものかなんて、考えるのは無駄というもの。藤井が一心不乱に叫び、警告を与えているのは……指名手配犯・結川以外にあり得ない。そして、彼女がオフィスに向かって叫んでいるのを鑑みるに……。
(まさか、結川はさっきのオフィスにいたのか……? しかし、どうも妙だな……)
犬塚達を結川から引き離し、時間を稼ぐ必要があるのなら。話をわざわざオフィスでする必要はないだろう。逮捕される覚悟があるのであれば、説明も弁明もオフィスではなく、先程の裏口……段ボール箱の前でよかったはずだ。それなのに、藤井は取り調べ当初、頑なに犬塚達を裏口へ誘導するのをよしとしなかった。
(もしかして、まだ何かを見落としているのか? 何だ? 何を見落としている……?)
藤井を追いかける真田をよそに、ハタと立ち止まる犬塚。そうして、ほぼ一本道の廊下の向こうでは、騒ぎを聞きつけたスタッフ達が心配そうにこちらを覗き込んでいた。そんな彼女達の視線は犬塚に注がれている……訳ではなく、藤井を追いかけ、一緒にオフィスへと逆戻りした真田に向けられている。注目の的は完全に犬塚からは逸れていた。
(結局、大騒ぎになってしまった……って、おや? ここは何の部屋だ?)
純白の壁に埋もれるように、僅かな取手で存在感を自己主張している、純白の引き戸。そんな扉が、オフィス手前の右手にあることに気づく犬塚。そうして、視線を上へずらせば……そこには、申し訳程度に小ぶりな「使用中」の表示灯が付いていた。
(あぁ、施術室か……うん? あれ? ここってバックヤードだったよな……?)
犬塚達がオフィスに通されてからと言うもの、こちら側には正規のお客様は誰1人、やってきていない。エステサロンの美容コースの内容までは犬塚には分からないし、どこまでの設備が必要なのかは見当もつかない。だが、それでも……バックヤード、つまりはお客様を通さないはずの空間に、施術室があるのは奇妙に思えた。
(……もしかして。藤井が見せたくなかったのは……)
オフィスの中でも、段ボール箱の山でもない。この部屋の中身なのでは……?
(さて、どうする? もし、オフィスに結川がいるのなら……俺も行った方がいい。2対1では、真田部長でも取り押さえるのは厳しいだろう。だが……)
藤井は叩いても埃を出さないタイプ……と思っていたが。おそらく彼女は必要に応じて、埃を撒き散らす器用さも持っていると考えていい。もし、藤井の最終目標がエステティック・ショーコを守ることではなく、結川を守ることだったとしたら。彼女の不可解な誘導にもある程度、スジが通る。途中から諦めたように協力的になったのは、結川を逃すのではなく、匿う方へとシフトチェンジしたからだろう。
《警察を甘く見たのは、失敗でしたわね》
彼女が自身の保身を諦めたのはおそらく、このセリフを吐いた後からに思える。そして、彼女は努めて冷静に間抜けな部分を見せ、自身が罪を被る事で……麻薬ではなく、結川を隠そうとした。
藤井とて、最初から自身の保身を諦めていた訳ではないだろう。きっと彼女が面会を断らなかったのは、警察官相手に遅れを取ると思っていなかったからに違いない。多少は尋問に応じて、時間稼ぎができれば良いと思っていたのだろうし……上手くいけば麻薬についての追及を逃れ、犬塚達を表口から帰せば、藤井自身の逮捕も先延ばしにできる。しかし、こちらのプランは失敗してしまった。犬塚達が素直に表口から帰ることを、よしとしなかったからだ。
(そうして、今度は俺達を裏口へと移動させた……)
麻薬を隠し通すのが難しいとなった時点で、藤井は自分が逃げるのは無理だと判断した。そして、逃げるのが無理ならば……せめて、結川から警察を引き離そうと考えたのだろう。麻薬の存在はバレてしまっても、裏口から帰らせれば、とりあえずの安全地帯は確保できる。……結川がこのビルにはもういないと思わせられれば、警察官達はこのビル以外の場所を血眼で探し始めるに違いない。しかし……。
「そう、そうよ! バルコニーに非常用梯子があるから、使って!」
「そっちか!」
わざとらしい藤井の警告と、まるで調子を合わせたかのような真田の叫びが響いてくるのを、聞き届けながら……息を潜めて、手元に拳銃を用意する犬塚。もし、彼の予想が合っているのなら。……しばらくしたらば、扉の向こうからアクションがあるはずだ。
(……)
残念ながら、藤井の捨て身の演技に犬塚は引っ掛からなかった……いや、犬塚が追従しなかった時点で、真田も気づいているのかも知れない。犬塚の鼻が、些細な違和感を嗅ぎ分けたことに。
(床が柔らかくて、助かったな。……これならば、音を立てずに移動できる)
ここぞとばかりに地の利を生かし、犬塚は慎重にドアの右側へ移動する。
取手が左手についているのを見ても、このドアは右に向かって開くタイプだ。外側に開くドアではなさそうなので、裏側に隠れる事はできないが、ドアの右側に移動すれば僅かな隙を狙える可能性はある。……このドアは左側から開く。しかも、ゆっくり、ゆっくり……開くはず。視界は左側の非常に狭い部分から、広がっていくのだから……最初から右側に視点が向くことは、まずない。
(……!)
「使用中」のランプが消えた、誰もいないはずの場違いな施術室。そのドアが、犬塚の予想通りにそろりそろりと開いていく。そうして、ヒョコッと焦茶の頭が出た瞬間。犬塚は手元の拳銃を突き出し、飛び出してきた頭に当てがい……低く、静かに呟く。
「……動くな」
「……」
リボルバーの遊底を引くと、「カチリ」と犬塚の手元から軽快な音が鳴る。その音に、犬塚が本気だと悟ったのだろう。目の前の後頭部からは、さも憎々しげな舌打ちが聞こえてくる。
「……チッ。また、お前か……! いつもいつも……俺の邪魔をしやがって……!」
「あぁ、そうだな。……あまり、手荒な真似をするつもりはないが。抵抗するのなら、それなりの怪我は覚悟することだ。……利き腕まで、不自由したくはないだろう?」
「これだから、犬共は嫌いなんだ。凶暴なくせに、澄ました顔をしやがって」
左手首に巻かれた包帯に言及しながら、銃口を頭から右肩に移動し……クイと拳銃で小突く。そうされて、ようよう観念したのだろう。焦茶色の後頭部に、手を回し……結川が降参のポーズを取った。そうされて、予断なく拳銃を構えながら、その手に手錠を嵌める犬塚だったが。手錠の下に見え隠れする、包帯に滲む生々しい茶褐色に……クロユリの牙の深さを、まざまざと思い知るのだった。




