クロユリが拗ねている、その頃
「ヘックション!」
「おっ? 誰かが、犬塚の噂をしているのかな?」
ハンドルを握りながら、妙な寒気に襲われた犬塚がくしゃみをする。そんな彼を、ここぞとばかりに助手席から真田が揶揄う。そうしてすぐさま、「よして下さいよ」と犬塚は困ったように返事をするが……やはり、知らぬは本人ばかりかなと、真田は肩を竦めてしまう。
「噂されているなんて、滅相もない。俺には心当たりもありませんよ」
「そうか? 犬塚は意外と、注目の的なんだぞ?」
「えっ?」
ナビの乾いた声に従って、銀座の大通りを何気なく走るが。意味ありげな真田の指摘に、今度は「うぅむ」と唸ってしまう。そうしている間に、かつてはプランタン銀座が鎮座していた角を曲がり、洒落たブティックが立ち並ぶ小道へと入る。どうやら……エステティック・ショーコは赤字まみれだったにもかかわらず、銀座の一等地に本店を構え続けられる程に、しぶとかったようだ。
「それで……ここがエステティック・ショーコの本店、か」
「そのようですね」
流石に、日本屈指の一等地に自社ビルを持つまでの荒稼ぎはしなかったらしい。商業ビルのフロアを借りているようで、入り口に掲げられているフロアガイドには「4階 エステティック・ショーコ 銀座本店」と記載されている。
「ところで……真田部長は、USBメモリの中身は確認されましたか?」
正式な利用客ではないものの……商業ビルの共同駐車スペースに車を停めながら、犬塚が真田に問う。きっと犬塚の質問も当然と、ある程度は真田も見越していたのだろう。真剣な面差しをビルの側面に注ぎながら、重々しく口を開く。
「……もちろん、確認したとも。その上で、しっかりと警視総監にも奏上済みだ」
「と、言うことは……癒着相手は本庁関係者ではなかったと言うことですか?」
犬塚の当然の指摘に、「その通り」と乾いた笑いと共に、情けなさそうに肯定する真田。
犬塚は真田が警視総監に話を持ち込んでいる時点で、癒着相手が切り離しても大丈夫な相手だろうと、勘繰っての返答をしたつもりだったが。真田も犬塚も、身内が可愛くて仕方ない警視総監の性格を知らぬわけではない。だからこそ、最初は警戒もしたのだ。もし、USBメモリが暴く癒着相手が警視総監のご親戚だった場合は……権力で強引に揉み消されてしまうだろう、と。
(宗一郎氏の調査結果が無駄にならなくて、何よりだが……)
スケープゴートに選ばれた、まだ見ぬ癒着相手に思わず同情してしまう犬塚。自身も「横流しの黙認」と言う罪を犯している以上、無罪の生贄にはなり得ないものの。きっと、警視総監のツテがあったのなら潔く切り捨てられなかったのだろうと、考えてしまう。
「そうそう、例のUSBメモリだが。律儀に、日付ごとにフォルダが分かれていてな。相当期間をかけて、調査を進めていたことも分かっている」
「そうだったのですね……。それで、確か……最後のフォルダにはパスが設定されていたと、修哉が言っていましたね」
「その通りだったのだが……実は、妙に釈然としないのだよ」
「と、おっしゃると?」
「うむ……最後のフォルダも無事に、確認はできたのだが。……パスキーを設定する程の内容かと聞かれれば、そうではない気がしてな……」
「……?」
車内が密室であるのをいいことに、真田がUSBメモリの「中身」について話始める。これから尋問するにあたって、犬塚にも共有しておいた方がいい内容だと、真田も踏んだからではあるが。しかし、先んじて目を通した「機密文書」は表向きは真っ当な調査内容に見えて……真田の目には、どこか胡散臭くも見えた。
「どの調査内容も、しっかりと調査をしたのであろう内容が網羅されていた。調査時期もエステティック・ショーコが黒字回復し始めた時期と一致しているし、決済書と突き合わせても齟齬もない。だが……あまりに綺麗すぎるのだよ」
その上で、肝心の最後のフォルダにはエステティック・ショーコだけではなく、東家グループ自体の決算書がPDF形式で収められていただけだった。該当期間の決算書をきちんと網羅しているのは、それなりに手間がかかってはいるのだろうが……正直なところ、上場企業の決算書は検索も閲覧も難しくはない。基本的に公開されている情報である上に、監査法人の認定を受けている事を前提としていることも多いため、信頼性も高いのが特徴でもある。それが故に……この程度の情報に、わざわざパスキーを設定する必要性はないと言えよう。
「しかし……この場合に信頼性があるのは、東家グループ本体の調書だけでしょうか。エステティック・ショーコの決算書は、利益の出どころが出どころですし、迂闊に丸呑みできないのではないかと」
「いや、そうはならんだろう。……決済書自体は、おそらくこちらもシロと見ていい。エステティック・ショーコはあくまで、東家グループの傘下企業だからな。決済書もグループと同じ監査基準で公開されている」
「では……もしかして、パスキー付きのフォルダには他の意図があると……?」
「もしかしたら、だがな。どうも、私には不自然にしか見えないのだよ」
そこまで言い募って……更に、何かを思い出したらしい。真田が、ポツリと気になる事を呟く。
「そう言えば。……USBメモリの中に、よく分からないデータが入っていたな」
「よく分からないデータ、ですか?」
「うむ。えぇと、確か……何とかストア、みたいな名前のファイルだったが……」
「あぁ、それはmacOSの隠しファイルですね」
「隠しファイル?」
「えぇ。真田部長が仰っているのは、DS_Storeファイルのことでしょう。macOS側でUSBメモリなどを使うと、アイコンの表示や位置調整の設定ファイルが生成されるんです。それで……同じUSBメモリを挿した際に、隠しファイルとしてWindows側でも表示されてしまうことがありまして。Windowsユーザーには縁がないこともあり、意味不明なファイルが生成されてしまったと見えるようですね」
「なんだ……パソコンが勝手に作ったデータか。何か、重要なデータだと思ってしまったよ」
やれやれと、苦笑いを溢す真田の一方で……犬塚は解説した手前、妙な違和感を覚える。
真田が見つけたらしい「DS_Storeファイル」は確かに、macOSで自動生成されるメタデータの一種であるし、消してしまっても問題がないファイルでもある。しかしながら、例のUSBメモリが使われたパソコンにmacOSが含まれているのは、少しばかり不自然だと感じる。何せ……。
「……ところで、真田部長。宗一郎氏の遺品に、Macintoshのパソコンってありましたっけ?」
「いや……なかったと思うが。そう言えば……宗一郎氏の自宅にはパソコンの類はなかったし、彼の携帯電話もiPhoneではなく、折り畳み式の社用携帯だったな。うむ? だとすると……」
「えぇ。例のUSBメモリは宗一郎氏以外にも、利用者がいたのかも知れません。宗一郎氏の調査結果を知っている人間は、彼以外にもいた可能性があります」
上林は調査結果を警察に託した時に、自身はその中身は知らないと言っていた。それに、犬塚に証拠品の中身を尋ねてきたのを考えても、彼女は嘘をついていないように思える。そうして、思い至るのだ。調査結果を知っているであろう人物が、少なくとも、もう1人いる事に。
(そうか。考えたら……調査自体を依頼された人間もいるんだよな……)
多忙を極める生前の宗一郎が、かかりっきりで姪っ子の身辺調査をできるとも思えない。ここからは推測でしかないが……おそらく、宗一郎は外部の何者かに調査を頼んだのだろう。そして、その人物が調査結果を知っているのは不可避であろうし……場合によっては、東家グループの複雑な内部事情も知っていた可能性もあり得る。




