隣にクロユリはいない
「……」
いつもの癖で、車を停めるとすぐさま横を向いてしまうが。当然ながら、助手席は空っぽ。数時間前までちんまりと座っていた黒毛の彼女は、もういない。そんな空虚な光景に、空気までもがひんやりと感じられて……犬塚は思わず、ハンドルに突っ伏す。
「はぁぁぁ……そんな事、考えている場合じゃないのは分かっているんだが……」
クロユリがどうしているかが、とにかく気になってしまう。今回のお別れは相手が生きているとは言え、寂しいものは寂しい。それでなくても、クロユリは従順なリッツ号とは異なり、犬塚に無遠慮にガッツリ甘えていたのだ。可愛くなかったと言えば絶対に嘘であるし、こうして離れてみると……彼女の重すぎる執着心が、却って癒しを提供してくれていた事も、まざまざと思い知る。やはり、お嬢様は可愛かったのだ。誰が何を言おうとも。
(元々、住む世界が違ったんだ。……だから、とにかく忘れなければ)
何かを振り払うように、ガリガリと頭を掻き。仕事に打ち込めば気分も切り替えられるだろうと、やや重い足取りで真田の待つ会議室へと移動する犬塚。第一、上林に預けた時点でクロユリの生活は安泰も安泰だろう。今更、犬塚が心配してやるべきこともない……はず。
「部長、犬塚です。遅れてしまい、申し訳ありません」
「いや、いい。クロユリちゃんはちゃんと預けられたか?」
「はい。上林さんの方も、快く引き受けてくれました」
「そうか……」
言葉だけ聞けば、前向きな内容ではある。普段通りのキリリとした犬塚の表情からは、警察官としての矜持も見て取れる。しかし……真田の目には今の犬塚は少しばかり、無理をしているようにも見えた。
(やれやれ……お別れが相当に堪えているようだな……)
警察官として百戦錬磨の真田が犬塚の傷心に気づかぬはずもなく。それでも、敢えてそれ以上は触れてやるなと考えては、真田が早速とばかりに本題を切り出す。
「……すぐに、お前にも追ってもらう事になるが。結川は今、行方不明の状態だ」
「行方不明、ですか? しかし、あんなにも目立つトラックを見失うとは思えませんが……」
「いや、トラックは運転手も含めて、確保済みだ。だが……結川だけが忽然と消えていてな」
「となると……まさか、途中でトラックから降りたんですか? ですが、報告によれば……トラックは一時停止さえもしていないはずだったかと」
そうなるな……と、真田がため息混じりに続けるところによると。結川は最初から囮にするつもりで、敢えて目立つトラックを用意していたらしい。そして、周到に準備されていたトラックの荷台からは、真っ黒なプロテクタースーツが2着見つかっており、おそらく結川は……。
「……バイク用のプロテクタースーツを着て、トラックから強引に途中下車したということですか。もしかして、残りの2着は周藤兄妹のために……?」
「そこまでは分からんが……まぁ、ほぼほぼそう考えて良さそうだ。結川達は当初、3人で逃亡を図るつもりだったのかも知れん。だが、予想以上に早く根城を制圧されたもんだから、結川は仕方なしに彼らを見捨てたのだろうな」
運転手にも事情聴取をしているが、無論のこと彼は黙秘を貫いている。だが、「必要な事は喋る」と言っていた修哉は約束通り、かなり協力的に聴取に応じているそうだ。きっと、自分達を見捨てた結川に義理立てするよりも、妹と母親を守る意図も含んでいるのだろう。彼の証言から、結川がどこぞのお坊っちゃまであったことも発覚したそうで……。
「結川が地東會の若頭、ですって? 地東會と言えば……」
「あぁ、そうだな。新宿・歌舞伎町の麻薬密売の主犯格とされる指定暴力団だ。例の一斉検挙で相当数の構成員が逮捕され、今となっては組織としては瓦解しつつあるが……。周藤修哉によれば、結川はその組長・有川善蔵の実子らしい。そして奴は、組長含む構成員メンバー全員の釈放と、地東會の立て直しを目論んでいたそうだ」
「……!」
周藤兄妹にしてみれば、アテは外れていたものの。宗一郎が保管していた「東屋グループと警察の癒着」の調査結果は、警察組織を強請るネタとしても相当に効力がありそうなことは、予想に難くない。犬塚はまだ、例のUSBメモリの中身を知らされてはいないが……修哉が知っている時点で、一方の結川はUSBメモリの中身を知っていると考えていい。
「……」
「どうした、犬塚」
「結川は警察を脅す前に……東家グループを脅すつもりなのでは……?」
「うむ? それはまた、どうしてだ?」
「顔が割れている以上、今の結川は交渉相手がいるであろう警察に自由に出入りできる身分ではありません。それでなくとも、結川はあの顔立ちですからね。兎にも角にも、非常に目立つ。何をするにも、身動きが制限されてしまうでしょう」
「だろうな。既に、指名手配の準備も進めているし……相当人数を投入し、奴の行方も追っている。そんな結川がノコノコやってきたところで……あぁ、そうか。要するに……結川は東家グループの被疑者をツテに、警察を脅そうとしている、という事か……?」
「おそらく、は。先立つものを用意するにも、交渉相手の橋渡し役をさせるにも、東家の関係者を巻き込んだ方が手っ取り早い上に、安全かと」
犬塚の推察に、一理あると真田は認めると。ここは1つ、一緒に事情聴取に出向こうと判断する。それに……。
(犬塚も、話し相手がいた方が気分も紛れるだろう。相変わらず、判断力は冴えているようだが……)
表情に翳りがあるのにも気づいては、真田は今の犬塚に単独行動はさせない方がいいだろうと踏む。ややもすると、無意識でクロユリのお迎えに行ってしまうかも知れない。
「そうともなれば、早速行こうか。……因みに、行き先は東家グループ本社ではなくて、だな。……エステティック・ショーコ本店の方だ」
「となると、癒着相手は東家祥子ですか?」
「あぁ、そうだ。……東家祥子はエステサロンで利用する名目で、医療用麻薬を仕入れていた。だが、実際には医療用ではなく、嗜好品として横流していたようでな。……赤字を埋めるために、犯罪行為に手を染めていたみたいなのだよ」
「……」
キツ目の化粧といい、妙に古めかしいヘアスタイルといい。祥子のエステサロンが廃れるのは、当然かも知れない……そんなことを、近影の初見で失礼にも思ってしまったが。犯罪行為に手を染めた時点で、潰れる・廃れる以前の問題だと、犬塚は考えてしまうのだった。