クロユリは気に入らない
落ち着け、とにかく落ち着くんだ。
辛抱強く犬塚が背中を撫でて、語りかければ。普段から聞き分けがよく、賢いクロユリのこと。犬塚の腕の中であれば、とりあえずは安心とばかりに……少しずつ警戒モードを引っ込める。しかし……クロユリが落ち着きつつあっても、目の前の少女・彩華はまだまだ泣き止みそうにない。
「……とにかく座って、彩華ちゃん。……刑事さんには、私の方から事情を説明するわ。それでいい?」
涙をこぼし続けながらも、上林の言葉にコクンと頷いては、素直に従う少女。そんな彩華にもお茶を出してから、上林が淡々と「彼女の事情」を切り出した。
「彩華ちゃんなのですけど……実は会長が殺された日にも、ユリちゃんに会いに行ったそうで……」
「何ですって? それじゃぁ、犯人を目撃したりは……」
「していないそうです。彩華ちゃんがお邪魔した時には、既に会長は倒れていて……ユリちゃんが側に寄り添っていたそうです」
そうして続く上林の話に……なるほど、と犬塚は納得してしまう。
彩華は普段から宗一郎宅に出向いては、クロユリと散歩を楽しんでいたりと、相当に入れ込んでいたらしい。そんなこともあり、かつてのクロユリは彩華にも懐いていたが……凄惨な事件現場で会ってしまったのが、良くなかったのだろう。クロユリは鉢合わせした彩華を犯人だと思い込んでおり、彼女を目の敵にしていたのだ。
「それにしても……犬塚さんは、彩華ちゃんを犯人と決め付けたりしないんですね?」
「えっ?」
「犯人を目撃したか? ……なんてお言葉が出る時点で、そう思っていらっしゃらないという事でしょう?」
言われれば、確かに。上林の話には、彩華を犯人だと特定できる証言はないが、一方で彼女が犯人ではないと断定できる材料もない。出どころが彩華の話だけである時点で、むしろ容疑者から除外する方が馬鹿げている。だが……。
「クロユリの反応からしても、彩華さんが犯人だとする方が自然ではあるでしょう。ですが、もし仮にそうだったとしたら……母親の関さんはともかく、上林さんが彩華さんを匿ったりしないのでは?」
「ふふ……やっぱり、犬塚さんは冷静ですのね。そう、ですね。……もし、彩華ちゃんが犯人だと分かっていたら、こんな風に家に上げることも、犬塚さんに相談を持ちかけることもしないでしょう。ですけど……私には、彩華ちゃんが犯人じゃないと言い切れる、判断材料があるのです」
「判断材料?」
そんなことを言いながら、彩華に「甘い物もどう?」と、プリンとスプーンを差し出す上林。こんな状況でお菓子だなんて……と、犬塚はつい思ってしまうが。彩華が素直にスプーンを受け取った瞬間に、上林が言わんとしていることにも、すぐに気づいた。
「そういうこと……ですか。彩華さん、左利きなんですね」
「その通り……そういうこと、ですわ。テレビでも散々特集していたから、存じていますが……犯人はおそらく、右利きなのでしょう?」
最近になって、ようやく公表されたことではあるのだが。宗一郎の傷は右側にあるものが圧倒的に多く、そして……15センチ以上に達していた4箇所は、すべて向かって右側に集中していた。日本人の約9割が右利きとされている以上、「犯人は右利きの可能性が高い」だなんて情報は、捜査の一助にもならないだろう。だが……彩華を容疑者から除外する分には、有力な情報にもなり得る。
「ゔっ……刑事さんは、信じてくれるの……?」
「確実に……とは、言い切れないけれど。事を急いて誤認逮捕するよりは、きちんと証拠を積み上げて、ちゃんと犯人を捕まえた方がいいだろう?」
ヨシヨシとクロユリをあやしながら、微笑む犬塚に……今度は別の緊張の糸が切れてしまったのか、彩華がまたも泣き出す。グズグズと鼻を啜る合間に、彼女がポツポツと呟く所によると。……どうやら、母・豊華は彩華の言い分をまともに聞きもせず、自首するように勧めたらしい。
「それで、上林さんの所に身を寄せていたのか……」
「はい……」
「でも、上林さんから説明してもらえれば、関さんの誤解もすんなり解けるんじゃないか? 君は左利きであるのだし、犯人である可能性が低いことくらい、きちんと話せば分かってもらえそうなものだけど……」
「……ママは信じてくれなかったの……。普段から、私が……悪い子だったから……」
努力することも、苦労することも。何もかも……辛いことは、大嫌い。
今までの人生全てにおいて、不都合から全力で避けてきた彩華。そんな彼女は、生真面目な豊華の目には「可愛い娘」ではなく、「期待外れの娘」として映っていた。高校を卒業したところで、大学進学に励むわけでもなく、かと言って、就職先を探すでもなく。明らかに母親に養ってもらう魂胆を見透かしては、豊華は彩華に関しては全てを諦めていた。
「……ママは私が捕まっても、関係ない……って言ってた。……弁護士なんだから、そういうのにも詳しいはずなのに……」
企業の顧問弁護士である時点で、豊華はどちらかと言えば、民事寄りの事案が得意な弁護士であろうが。それでも彩華が言う通り法律の専門家である以上、刑法にも詳しいに違いない。普通の親娘の関係であれば、誰よりも頼りになるアドバイザーになり得るだろう。だが、豊華は娘に救いの手を差し伸べることも、知恵を貸すこともしなかった。
「きっと、ママは私が捕まって、刑務所で反省でもすればいいって思っている……いや、違うわ。一生出てくるな、って思っているかも。……最近、ママは私に勉強しろとか、働け……とか。……全然、言わなくなったもん……」
そうして萎れる彩華を見つめては、「フス」といつもの不満げな鼻息を漏らすクロユリ。麻呂眉と鼻筋に皺を寄せては、険しい表情を崩そうとしない。
「ほれほれ、クロユリも。怖い顔をするなって」
「……キュフ」
だって、気に入らないんだもん。
ピンと耳が立った後頭部越しでさえ、クロユリが不機嫌なのも見透かして。彼女の頭を撫でながら、今夜のお献立は何にしてやろうかと、犬塚は場違いにも考えてしまうが……。
(って……いや、今夜のことは考えなくていいんだった。……今日でお別れなんだから)
彩華の登場で、当初の目的が霞んでしまったが。元はと言えば、犬塚は彩華の相談を受けるために来たのではなく、クロユリを上林に返すために来たのである。話が途切れた所で、一気に目的を達成してしまうのも、スマートなやり方だろう。そう、スマートなやり方……のはずである。