クロユリと高級マンション
チラリと助手席を見れば、どうやらご機嫌らしいクロユリの横顔が映る。新しい真っ赤な首輪も気に入ったようで、犬塚には心なしか彼女が微笑んでいるように見えた。だが……ウキウキとされれば、される程。犬塚の気分はそれに反比例するように、どんどんと沈んでいく。
(……後悔なんて、しない。……これが互いに正しい選択のはずなんだ……)
そう、これは正しい選択。警察官としてきちんと任務を全うしたのだから、胸を張ってクロユリを本来あるべき場所に返してやればいい。お嬢様のお住まいに相応しいのは、何の変哲もないアパートの一室ではなく、上質な高級マンション。本来、犬塚のアパートに転がり込んだ縁だって、偶然と遺言の産物でしかなかったのだから。
「……」
しかし、そう思い込もうとしても、犬塚の気分は晴れるどころかモヤモヤと曇っていく。
真田に了承を取った後、上林に連絡をしてみると……彼女は犬塚の提案に驚きつつも、クロユリを引き取ることに関してだけは、きちんと理解を示した。しかし、それとは別に話したい事があるとのことで……上林も、クロユリを遺産ごと引き取ることに関しては、消極的なようだった。
「キュゥン?」
「うん? あぁ……別に、お前が心配するようなことはないからな。……大丈夫。大丈夫さ」
「ファフ?」
思いがけず、犬塚が難しい顔をしていることにも気付いたのだろう。きちんとお座りしたままでも、犬塚の顔を訝しげに覗き込みながら、クロユリが丸顔を傾げている。
(……本当に可愛い顔をして……。そう言えば、最初に出会った時よりも、ふっくらしたなぁ……)
グルメなお嬢様のために毎日、慣れない料理にも挑戦させられたっけと思いながら……目的地へ向かう、最後の曲がり角へと車を滑らせる。
ナビが示す残りの距離は、わずか300メートル。彼女との別れまで……あと、300メートル。
「キャフ、キャフ!」
「そうか、そうか。ここには前にも来たこと、あったもんな」
「ワフ!」
ここに住んでいるのが、自身も懐いている上林だと言うことも、賢いクロユリは分かっているのだろう。ピコピコと尻尾を振って、早く行こうと犬塚を促す。
「うん、ちょっと待っててな」
「キャフフ! キャフ、キャフ!」
「おいおい、そんなに引っ張るなよ……」
この調子だったら、クロユリも素直に上林に馴染んでくれるだろうか。クロユリのはしゃぎように、安心半分、寂しさ半分。そんな事を考えながらも、犬塚は上林の指定通りに地下駐車場に車を停めて、クロユリに引きずられるように、エレベーターに乗り込む。流石は高級マンションのエレベーター、降りてくるのも早ければ、上昇もスムーズだ。まるで犬塚にさっさと決心してしまえと言わんばかりに、なんの躊躇いもなく16階まであっという間に登り切る。そして、真っ直ぐに続く廊下の奥……1608号室は呆気ないほどに、すぐ近くだった。
「……上林さん、いらっしゃいますか? 犬塚です」
「あっ、はい。……今、出ますね。お待ちください……」
いつかの時のように、上林が朗らかに迎え入れてくれる。クロユリの来訪を喜びながら、リビングへと犬塚達を通すと……まずは、お茶とおやつを用意しますと椅子を勧めてくれる。
「いいえ、お構いなく……」
本来、参考人宅にお邪魔する時は2人1組がルールである。しかしながら、クロユリを返す名目と真田の了承もあり、他のメンバーも忙しいことも相まって単身で訪問しているが……1人は却って落ち着かないと、犬塚は思ってしまう。
「そういう訳にはいきませんわ。折角来てくださったのですから、お茶くらいは出しませんと。それに……私の方からもお伺いしたい事がございますし」
「お話、ですか?」
しかしながら、上林は犬塚相手に警戒もしていないのか、はたまた信頼してくれているのか。すぐに追い返すつもりもないようで、話をしたいと切り出してくる。化粧っ気がなくとも綺麗な顔を、少しだけ曇らせながら。上林は手慣れた様子で紅茶を淹れると同時に、クロユリには犬用のビスケットを差し出しては、嬉しそうに頬張る様子を見つめて、長いまつ毛で縁取られた目を細めた。
「ところで……例の調査結果はご覧になりまして?」
「いえ、お恥ずかしながら……実は、まだなのです」
「あら、そうでしたの? それはまた、どうして?」
実は警察に紛れ込んでいたスパイに掻っ攫われて、確認が遅れました……なんて、言えるはずもなし。証拠は無事に奪還したものの、本格的な調査はこれからだ。しかしながら、例え中身を確認していたとて。……警察組織として、証拠をどのように扱うかも含めて、口外すべき内容ではない。
上林は重要参考人である以上に、パンドラの箱そのものを警察に託してきた張本人でもある。中身に関しては彼女も知らないと言っていたが、ある程度の実情は把握していると考えるべきか。だが、一方で……彼女はあくまでも一般の民間人である。警察組織の捜査内容を易々と共有していい相手でもないだろう。
(さて、どうしたものか……)
不思議そうにこちらを見つめる上林を前にして、返答に窮する犬塚。考えたら、彼女から「パンドラの箱」について聞かれるのはある意味で自然であるし、この場合は答えを用意してこなかったのがよろしくない。
「きっと、お話になれない事情があるのですね? でしたら、無理に教えていただかなくても大丈夫ですよ」
「えっ?」
「皆様の調査が進めば、いずれ結果だけは知る事ができるでしょう。……会長の殺人事件は注目度も抜群ですもの。少しは下火になったとは言え、未だにテレビで見ない日はありませんし」
他に目立った事件がないせいもあるのだろう、「東家会長殺人事件」と銘打たれたトピックスは連日、世間様を賑わせたままだ。この所は「警察は何をやっているんだ」と荒々しくスポーツ紙に書かれていたりもするので、そろそろ飽きられてきたのだろうが……進展がなくとも、注目度が高いままなのは変わりない。
「それに……知りすぎると、却って面倒事に巻き込まれることもありますから」
「……」
少しばかり意味ありげなことを呟きながら、上林がフフと笑う。そうして、クロユリの頭を優しく撫でた後……今度は犬塚に相談を持ちかけてきた。
「……実は、犬塚さん達に折り入って、ご相談があるのです」
「相談?」
「えぇ。……東家グループの顧問弁護士・関豊華さんはご存知ですか?」
「お会いしたことはありませんが、ある程度の素性は把握しています。とは言え……」
「あぁ、もちろん。犬塚さん達からしたら、関さんも容疑者候補ですよね。……そこは否定しません」
「いや、そこまで言っているわけではないんですけど……」
何かと鋭い上林に、タジタジになってしまう犬塚。そんな犬塚の様子にクスクスと笑ってみせると、上林が話を続ける。
「ご相談というのは、関さん自身のことではなくて、ですね。……関さんの娘さん、彩華さんについてです」
「関さん、娘さんがいたのですか」
「はい。思春期で、少し難しい時期なんだと……職場で会う時は、よく漏らしていましたわ」
雰囲気からするに、上林と関はそれなりに仲が良かった様子。だが……関と仲が良かったが故に、上林は思いもよらぬ厄介事を抱える結果になってしまったらしい。
「……彩華ちゃん、大丈夫よ。出ていらっしゃい」
「は、はい……」
上林に呼ばれて、奥の部屋から出てきたのは……犬塚としては初対面の、くたびれた様子の少女。瞳の下にうっすらとクマを作り、明らかに疲れ果てている様子だが……。
「グルルルルル……!」
「クロユリ、どうした? えぇと……彩華さんが、何か……」
「ギャギャウッ! ギャルルルル!」
「こ、こら! クロユリ、やめないか! ドウ、ドウ……」
顔を合わせた途端、彩華に飛びかかりそうになるクロユリを慌てて抱き上げる。一方で……一気に狂犬になりかけたクロユリを見つめて、彩華はまるでこの世の終わりと言わんばかりの表情で泣き出した。
「ゔっ……やっぱり、私……ユリちゃんに嫌われたままだぁ……!」
人目も憚らず、彩華がその場でボロボロと涙を流しながら蹲り、そんな少女の背中を……上林がよしよしと摩ってやっているが。この調子では、話の続きはクロユリと彩華の両者が落ち着いてからになりそうだ。




