知らぬはクロユリばかりかな
スピスピ……スピスピ……。
薄暗い部屋で目覚めた犬塚の耳元で、今朝も安寧の寝息が漏れている。そうして寝息の主を確認しようと、犬塚が左側を振り向けば。目前には麻呂眉ごと丸顔をとろけさせた、クロユリの寝顔がデデンと映る。
(……まぁ、無事で何よりだと、するべきか……)
周藤兄妹確保の後、篠崎にも一応診てもらったが……クロユリ自身に大きな怪我はなかった。だが、相当に怖い思いもしたのだろう。帰路に着くと同時に真田の腕の中から、犬塚の腕の中へと乗り換えた途端、クロユリは以前にも増して犬塚に甘えるようになっていた。
(これじゃぁ、別れが辛くなるだろうに……)
周藤兄妹への取り調べ及び、押収したUSBメモリの確認などなど。有力な証拠が揃った以上、今日は一段と捜査が前進するだろうと、犬塚は期待すると同時に……不安にもなっていた。上林の証言が正しければ、USBメモリに納められているのは「東屋グループと警察の癒着」の調査結果についてであり、それは同時に警察の汚職の証拠にもなりかねない。場合によっては、一企業の東家グループよりも、公的な組織である警察の方がダメージが大きい可能性もある。しかしながら、これらの証拠品によって捜査が大幅に進むことだけは間違いない。宗一郎氏殺害の犯人には、まだまだ遠いが。今回の進展で「東家グループ」の内部状況が、より鮮明に現れたのなら。犯人特定の糸口に繋がるかもしれない。
だが……今の犬塚は捜査の進展に、素直に喜べなくなっていた。宗一郎氏殺害の犯人が捕まることは即ち、捜査本部の解散になるという事であり……捜査の一環という体で預かっている以上、その暁にはクロユリは然るべき親族ないし、新しい飼い主に引き渡さなければならない。捜査の完遂はクロユリの保護期間の終了と同時に、犬塚とクロユリの別れをも意味していた。
(そう、だよな。俺は一時的に預かっているだけなんだ。これ以上、懐かれる前に……彼女に預けるべきか)
肝心の宗一郎殺害の犯人像は、未だに見えては来ない。だが、犬塚は今更になって、宗一郎はタダの怨恨で殺されたのではない気がして、ならなかった。
宗一郎の死因は失血死、原因は計34箇所にも及ぶ激しい裂傷・刺し傷……いわゆる「滅多刺し」。これだけ聞けば、宗一郎は誰かに相当に恨まれていたんだろうなと、誰もが思うに違いない。もちろん、犬塚も事件を担当した当初は、漠然とそう思っていた。だが……調べれば、調べる程。実際には、宗一郎はそこまで恨まれるような人間ではなかったことにも、気付かされる。
ご近所さんとは「かなりの愛犬家」として、慎ましく平穏なお付き合いをして。かつての秘書からは、「会長がいない東家に残る意味はない」とまで言わしめ。実の弟や妹は突き放すと見せかけて……本人の知らないところで、しっかりと後始末までやってのけ。彼は大っぴらに誇示することはなかったが、周囲の関係者にかなりの心を砕いていたのだ。
もし、そんな彼が「怨恨」で殺されたと言うのなら。……それは「逆恨み」というヤツなのだろうと思いかけて、犬塚はいかんいかんと苦笑いしてしまう。クロユリ経由で、随分と宗一郎にも肩入れしてしまっていると考えては……このままではマズイと、犬塚は頬をパシンと張った。この調子では捜査に参加していても、冷静な判断ができなくなってしまう。
「……真田部長、おはようございます。少し、相談があるのですが……今、よろしいでしょうか?」
「うむ、おはよう。無論、構わんが……どうした、犬塚。何か、問題でもあったか?」
「いえ、問題ではないのですが……そろそろ、クロユリを縁者に返した方が良いかと思いまして」
「……ほぅ?」
覚悟と決意が鈍らないうちに、善は急げと……真田に連絡を取る犬塚。携帯電話の向こうからは、いつも通りの朗らかな真田の声が聞こえてくるが、犬塚のご用向きは流石に想定外だったのだろうう。まずは訝しげな声を上げつつも、犬塚の真意もきちんと汲み取って……出勤前に彼女に単独での連絡を取ること、場合によってはそのままクロユリを返してきて良いと、犬塚の提案に了承を示した。やや名残惜しそうではあるが、真田も犬塚の言い分にそれなりの理由を見出してくれたのだろう。
「確かに、クロユリちゃんは犬塚に懐き過ぎている気がしないでもない。このままでは別れ難くなる、というのも分かる。そうだな……ここは最有力候補にお預けするのが無難だろうか」
「えぇ。ですので、彼女の反応次第ではありますが……上林直美に連絡を取り、早めにクロユリを引き取ってもらおうと思います」
「まぁ、あの調子だ。遺産はいらんと言いそうだが……宗一郎氏の遺志を汲み取るに、クロユリちゃんを預けるのにも申し分ない相手だろう。……きっと、クロユリちゃんをしっかりと大切にしてくれるに違いない」
最初から、クロユリは一時的な保護という名目で犬塚がたまたま預かっていただけに過ぎない。そのことを、真田も犬塚もよくよく熟知しているからこそ、互いの中では最適解だと思われる選択をしたが。……だが、当人がどんな反応を示すかまでは、その時の犬塚は予想すらできていなかった。