クロユリの牙跡
周藤兄妹が警察に確保されている、その頃。後方にパトカーを従えながら、バックミラー越しにフンと鼻を鳴らす結川。追われている身だと言うのに、落ち着き払った様子で足を組み替えると……左腕に赤々と走る、2本の傷跡を見つめる。ようやく、出血は落ち着いてきたものの。おそらくは縫わなければならないであろう、傷の深さに……結川はチッと、小さく舌打ちした。
(思いっきり噛みつきやがって……! これだから、犬は嫌いなんだよ)
大きな体で威嚇するような警察犬も嫌いなら、ギャンギャンと吠える小型犬も嫌いだ。それでもって……名字に犬が付く、あいつは殺してやりたいくらいに憎らしい。しかしながら……今は沸々と怒りを再燃させて、判断を鈍らせている場合ではない。それに、もうそろそろターニングポイントに差し掛かるのだから……しっかりと準備をしなければ。
「……若、本当に大丈夫なんですかい?」
「あぁ、俺のことは心配するな。……お前には悪いが、身代わりを頼んだぞ」
「もちろんでさぁ。……俺っちがお役に立てることと言えば、囮になることくらいなもんで。若頭を逃がせるんだったら、何でもしますぜ」
やはり、この男に頼んでよかった。結川は自分の逃走計画に、下っ端とは言え……忠誠心が殊の外高い彼を選んだことを、申し訳なく思いつつ。まずは、自分が逃げ延びる事を優先せねばと、腹を括る。逃走手段に目立つトラックを指定したのは、他でもない。トラックそのものを囮として使うためであると同時に……荷台に脱出用のあるものを準備させるためだ。それが……。
「しっかりと、準備してくれたみたいだな。本当に……何から何まで、すまない」
「いえ、いいって事です。とにかく……若、お着替えを急いでくだせぇ」
「あぁ、分かってる」
助手席のシートを倒し、結川が荷台へと移動すれば。そこには彼の指示通り、真っ黒なバイク用のプロテクタースーツと、フルフェイスタイプのヘルメットが3人分用意されていた。そして、そのうちの1着を手慣れたように着込む結川。本来は、3人一緒に行動を続けるつもりでいたのだが。今となっては、目立ちたがり屋な彼は捨ててきて正解だったかもしれないと、結川は自身の判断を無理やりにでも肯定し、深い後悔に蓋をすることで……周藤兄妹の安否はこの先、気にしないことに決める。
「バイクがないのに、この格好は間抜けだが。……今はそんな事を言っている場合でもないか」
今回のプロテクタースーツは何も、バイクに乗るために着るのではなかった。飛び降りた時の、怪我を少なくするために着るのだ。プロテクタースーツはバイクで転倒した時に、怪我や死亡の可能性を軽減する効果がある。結川はそんなプロテクタースーツを着込んで、トラックから単身で飛び降りようと画策していた。
「よし、暗くなってきたな。このまま、スピードを落とさずに走り続けてくれ。それで……」
「分かってまさぁ。……住宅街から離れて、暗い場所を走ってればいいんですよね?」
その通り。満足そうに、結川は物分かりのいい運転手に応じる。
都会はどこもかしこも、明るくていけないが。それでも、街灯が少ない場所を選べば奴らの目を欺いて脱出もできるかもしれない。それに、結川は曲がりなりにも警察官なのだ。普段から受け身の訓練もしていれば、走行方向に対して後ろ向きに飛び降りれば、衝撃を軽減できることくらいは知ってもいる。……場所さえ選べば、結川の単身脱出は十分に可能だろうと、彼は踏む。
日は落ちた。そして……時は満ちた。
「若、ご武運を祈っておりますぜ」
「あぁ。お前には何から何まで、世話になった。……成功した暁には、ちゃんと迎えに行くから……ムショでは、親父達によろしくな」
「へい。それじゃ……」
お達者で……そんな彼の別れの言葉さえも、横を通り過ぎる風圧で掻き消され。結川は狙い定めたタイミングで、思い切りよく体を丸めて飛び降りる。そうして、すぐさま彼の耳に届いたのは……けたたましいサイレンを鳴らしたまま、ブンブンと通過していくエンジン音の群れ。公園の生垣に着地した結川に気づかずに……パトカーは自身の警告音のせいで、些細な物音をかき消していた。だが……。
(……っツ! クッソ……左腕の傷が開きやがった……!)
運悪く、着地した衝撃で左腕の出血が再開してしまったらしい。未だに痛みは治らないのも忌々しいが、何よりも出血が続くのは非常によろしくない。
「……どこかで手当てをしないと、いけないな……」
ジクジクと腕が痛むと同時に、熱を帯びるような錯覚に襲われる。それでも歩き続けなければならないと、目的地を目指し、結川は努めて平静を装いながら公園へと足を踏み入れる。しかし……左腕の傷はまるで、犬達が残した罪の証にも思えて。結川は尚も、不愉快だった。