クロユリは気が抜けない
逃走したところで、顔が割れている以上は時間の問題だろう。そんな事を考えつつも、結川に見捨てられた周藤兄妹を確保しつつ、やり切れない気分にさせられる犬塚。兄の修哉は深山が手加減していた事もあり、打撲で済んでいるが……妹の小春はやや重症だ。
「とにかく、2人ともこの場で逮捕になりますけど。……小春さんの方は、救急車が先ですね」
「そうだな。それに……うん、まぁ。クロユリは先生に診てもらうか……」
ポンポンが痛いの、あっちの乱暴者に蹴られたの。
クロユリに言葉はないものの。キュンキュンと鼻を鳴らしては、悪い奴に虐められたのと言いたげにウルウルと犬塚を見上げている。仕事をしなければと犬塚が床に彼女を降ろそうものなら、ヨロヨロと倒れ込んで……自分で歩けないから、抱っこしてちょうだいとアピールする始末。これでは、犬塚はクロユリにかかりっきりにならざるを得ない……と、誰もが思っていたのだが。
「クロユリちゃぁぁん! 無事でちゅか〜⁉︎」
「ギャフ⁉︎」
犬塚相手に品を作っていたと言うのに、クロユリの手練手管に真っ先に引っかかったのは……本命のご主人様ではなく、犬塚の上司・真田だった。
深山からの連絡を受け、彼も現場に急行すると同時に、突入の指示を執り仕切っていたのだが。犯人逮捕よりも、クロユリの安否が大事と見えて、しばらく彼女とのスキンシップ(クロユリからすれば、セクハラ)に興じているのだから、真田のストレスも相当に溜まっているのかも知れない。
「キャ、キャフ⁉︎ キューン⁉︎」
「あは、あはは……真田部長。すみませんが、クロユリをしばらく頼みます。ついでに、篠崎先生に診てもらってください」
「うむ、承知した。クロユリちゃんは、私に任せなさい。この調子では、ここはすぐに撤収になるだろうし……犬塚達にも、すぐに結川の確保に向かってもらうことになりそうだが」
クロユリのペットシッター役は満更ではないと見えて、彼女をガッチリ抱っこしつつ、キリッと司令官としての顔も作る真田。そんな彼の器用さに、呆れつつ……真田の視線が示す先を見やれば。警察官達にやや乱雑に立たされて、トボトボと歩く修哉と、深山に傷口を押さえてもらっている小春の姿が目に入る。怪我の部類こそ違えど、きっと結川に見捨てられたショックもあるのだろう。周藤兄妹は焦燥しきった面持ちで、これ以上は無駄に暴れるつもりも、文句を垂れるつもりもないようだ。
「……それはそうと、真田部長。あそこにあるのって、もしかして……」
「うむ……? おっ⁉︎ 例の工具箱じゃないか。それで、中身は……?」
クロユリを抱っこしたままの状態で、真田がズイズイと机代わりの調理台へと歩み寄る。肝心の工具箱は空ではあったが、すぐ隣に起動したままのノートパソコンが放置されており……画面はロック状態になっているものの、側面にはUSBメモリが挿さっている。
「すまんが、君!」
「はっ!」
クロユリを抱っこしているため、自分でノートパソコンを運べない真田が近場にいた警察官を呼ぶと、証拠品としてパソコンごとUSBメモリを押収するように指示を出す。元はと言えば、工具箱は中身も丸ごと大神咲から警察に託された物品だ。このまま持ち帰って、中身を検証するくらいは許されるだろう。
(しかし、妙だな……。どうして、彼らは声を上げないんだ……?)
見捨てられたショックが大きいにしても、周藤兄妹は不気味な程に沈黙を貫いている。さっきはあれ程までに、血気盛んに裏口から逃走しようとしていたと言うのに……。
「……お前が犬塚、か?」
「あぁ。確かに、俺は犬塚だが」
繁々と、犬塚が修哉を眺めていると……低く唸るような声を絞り出し、意外にも彼の方から話しかけてくる。そうして修哉はチラリと小春が護送車ではなく、救急車に運び込まれたのを見届けて、さもやり切れないと肩を落とした。
「そう、か。ふーん……お前が、ね」
「……?」
「まぁ、いい。今となっちゃ、アニキに義理立てする必要もないし。心配しなくても、必要なことは喋ってやるよ。その前に……ちょっと、お願いしておきたいことがあるんだが」
「お願い、だって?」
「あぁ。……今から言う住所に、俺達のお袋が住んでいてさ。……お袋は、東家純二郎のせいで……未だに、1人で外に出られない状態でな。……俺達がいなくなったら、お袋の面倒を見てやれる奴がいなくなっちまう。だから、せめてお袋をどっかの施設に入れてやってくれないか。……金はちゃんと工面するから……」
「……」
東家純二郎のせいで。
修哉がさも悔しそうに語るのを見るに、きっと上林の母親・悠美と同じ目に遭わされたのだろうなと……真田と犬塚は、たちまち渋い顔をさせられてしまう。そんな彼らの様子に、修哉も何かを悟ったのだろう。フッと、小さく息を吐くと、緊張の糸が切れたように尚も重要な事を垂れ流し続ける。
「その様子だと、純二郎の野郎がどんな奴か、知ってそうだな?」
「……事実確認はまだ、できていないが。おそらく、あなたが言っているだろう類の内容に近い証言が、別の被害者からも上がっていてな。……何となく、知ってはいるさ」
「そっか、そっか。じゃぁ、尚のこと、お願いしておかないといけないか。……あのUSBメモリには、ムカつくことに純二郎の野郎をぶっ潰す証拠は入ってなかったけど。パス付きのファイルの中身があれば、純二郎の足も引っ張るくらいはできるかもな。……因みに、パスはクソ犬のチップ番号だ。この際だから、東家グループを警察の皆さんで沈めてもらうのも、アリかもな?」
「……」
そこまで一方的に吐き出して……最後に念押しをするように、小さく「お袋を頼む」と零す修哉。しかし……クロユリと目があった瞬間に彼女が「ムキッ」と鼻筋に皺を寄せたものだから、今度は堪らずプッと吹き出す。
「ったく……本当に最初から最後まで、可愛げのないクソ犬だな。お前のお陰で、俺らは豚箱行きだ。……覚えてろよ」
「ギャフ……!」
望むところだ……と、言っているのかどうかは定かではないが。売られた喧嘩は買うつもりと見えて、クロユリは鼻先だけで唸っている。それでも、修哉の方は諦めと同時に、納得もしてしまった様子。殊の外素直に、警察官の誘導に従いながら、自らの足で護送車へと乗り込んでいった。