クロユリ包囲網
「クロユリッ!」
あぁ、新しい方のご主人様が来てくれた。
クロユリはまだまだジンジンと疼く痛みを我慢しながら、スンスンと駆け寄ってきた犬塚に鼻を寄せる。そんな健気なクロユリを、労るように犬塚もすぐさま抱っこしてくれるが……。
「大丈夫か、クロユリ」
「キュゥゥン……」
ここぞとばかりに甘えては、何かを見せつけるように尻尾を振る。そうして、チラリと「してやった」相手を見つめれば。武装した警察部隊が相手では、分が悪いと即座に判断したらしく……彼らは往生際悪く、厨房から続く裏口へ続く廊下へと逃げ出していく。しかし……。
「クッソ! こっちも塞がれてやがる!」
そら、見たことか。自分を蹴り上げた修哉の悔し紛れの咆哮に、フスと鼻先でほくそ笑むクロユリ。
彼らはこの包囲網を、想定外だと狼狽えているが……それはそうだろう。相手がいくら平和ボケした日本の警察官だとて、甘く見てはいけない。
組織としてはちょっぴり腐敗混じりかもしれないが。少なくとも、犬塚の上司は非常にまともであるし、ちょっと腐っているところがあっても、組織としてはまだまだ優秀。瓦解しかかった暴力団の残党を拿捕するくらいは、軽々とやってのけるポテンシャルは残っている。たった3人相手に突破を許す程、落ちぶれてもいない……はずである。
「こ、こうなったら……!」
「修哉! ダメだ、やめろ!」
クロユリに向けるはずだった包丁を片手に、無謀にも修哉が裏口を固めている警察官へ飛びかかる。よくよく見れば、武装した警官に混ざって、何故か無防備なスーツ姿の女性警官が立っているではないか。彼女に怪我を負わせれば突破口になるかもしれないと、修哉は迷わず小柄な女性警官へと突進していく……!
「そこを退け、クソアマッ!」
「……ふっ!」
「えっ……?」
だがその女性警官……深山は落ち着いたもので、腰を低くしたかと思うと、すぐさま強烈な足払いを繰り出す。突然に足を掬われ、理解が追いつかない修哉が倒れ込む間もなく……今度は強烈な右フックが、左腹部にめり込む。
「オガッ……?」
「……ったく。素人に突破される程、甘くないって。無駄な抵抗しなければ、痛い目に遭わなくて済んだのに……」
一瞬の出来事に、まだ何が起こったか分かっていない修哉に対し、深山は呆れた様子でため息をつく。その一方で……彼女の手腕をよくよく知っている犬塚や警察官達は、深山の恐ろしさを改めて再認識していた。……山椒は小粒でもぴりりと辛い、なんてよく言うが。深山の場合はピリリどころでは済まないから、まずまずタチが悪い。
「さて……と。結川さんに周藤さん。……署までご同行頂いても?」
「……断ると言ったら?」
「断れる状況かどうかくらい、分からないんですか?」
「そうだな。普通であれば、断れない状況だろうな。だが……」
「……⁉︎」
修哉を難なく沈めた深山が結川に向き直り、手錠片手に凄むが……結川は易々と諦めるつもりはないらしい。すぐ隣にいた小春の身柄を引き寄せると、彼女の首に拳銃を充てる。
「ゆ、結川さん……?」
「ちょ、ちょっと! 何してるんすか! そんな事をしたら……」
「おら、退け! こいつを殺されたくなかったら、道を開けろ!」
破れかぶれになったのか、はたまた、自暴自棄になったのか。明らかに異常な興奮に血走った目で、怒鳴る結川。しかし、人質に取るには小春はあまり有効な相手とは言えないのかもしれない。人命最優先を是としてはいるが……警察官達にしてみれば、彼の行動は明らかな仲間割れである。
「そうか、そうか。……お前らは、俺が本気じゃないと思っているんだな……? じゃぁ、これならどうだッ⁉︎」
「キャァッ⁉︎」
しかし、次の瞬間に響くのは、鋭い銃声と悲痛な悲鳴。
警察官達が素直に道を開けないとなると、結川は更なる強硬手段に出た。あろうことか小春の太もも目掛けて発砲し、いとも簡単に彼女を傷つけて見せる。
「俺は本気だぞ……!」
「アッ、アニキ! 小春に何をするんだ!」
「うるさいッ! 大体、お前がしくじらなければこんな事にならなかったんだ!」
「そんなッ……!」
無慈悲にも、結川は芋虫のように情けなくうずくまる弟分は見捨てるつもりのようだ。片足を引きずった状態の小春を強引に歩かせながら、尚も道を開けろと恫喝する。実際に発砲されたという現実もあるのだろう、警察官達も予断なく結川を睨みながらも、恐々と後退していくが……。
「若頭、お待たせしましたッ! さぁ、乗ってくだせぇ!」
結川がようよう裏口のドアを開けた、次の瞬間。ドアの向こうからは警察官達の怒号と悲鳴、そしてトラックの轟音が響いてくる。そして、裏口の障害物を強引に薙ぎ払ったらしいトラックからは、威勢のいい男の声が上がった。
「とにかく、急いで出せ!」
「承知しやした! って……そっちはいいんですかい?」
「構わん。どうせ、もう役に立たない」
何食わぬ顔で素早くトラックに乗り込んだ結川は、まるでゴミを捨てるかのように小春の身をあっさりと解放する。運転席に座る男の怪訝も澄ました顔で受け流すと、牽制の銃口を小春に向けたまま……轟々とエンジンを唸らせるトラックで、強引に走り去っていく。
「犬塚……お前だけは、絶対に許さない……! 覚悟しておけよ……!」
猛スピードで景色が変わっていく助手席の窓からこぼれたのは、結川の犬塚への明らかな敵意。
父親の高跳びを邪魔したのだって、そう。
クロユリを見事に手懐けて、手がかりを掻っ攫って行ったのだって、そう。
クロユリに目印を付けて、逃走を邪魔したのだって、そう。
そうだ、そうだ、そうだ。何もかも、そうだ。
上手くいかない事は全部全部、アイツ……犬塚のせいだ。
厳密にはクロユリのスマートタグは、犬塚が仕掛けたものではないものの。そんなことは当然ながら、結川は知るはずもない。それでなくても、犬塚が厄介な奴だと思い込んでいる結川にしてみれば、不都合は例外なく犬塚の悪巧みへと変換される。
(そうだ……アイツさえいなければ……! こんなにも苦労しなくて済むのに……!)
そうして、トラック後方にけたたましいサイレンの音を聞きながら……結川は犬塚への恨みも新たに積もらせるが。それがただの逆恨みであることを、本当はお坊っちゃまだった結川が気づく日は、絶対に来ないのだろう。




