吼えろ! クロユリ
「裏にトラックを回させた。とりあえず、移動するぞ」
周藤兄妹が厨房で不毛な話をしていると……ようやく、逃走手段を確保したらしい結川が姿を見せる。普段の派手目なスーツではなく、黒のタートルネックにスラックスという出立ちは、警察官というよりかは、どこか特殊部隊と思しき物々しい雰囲気を醸し出していた。
「そんで、修哉。お前も着替えておけ。そのスーツじゃ、目立つだろ」
「え〜? それ、アニキが言います? これ、結構気に入ってるんすけど……。一緒にホストクラブをシメてた仲じゃないっすか〜」
「それはそれ、これはこれだ。……まぁ、俺も地味なのは嫌いだけど」
結川も修哉も見目が非常に良い。それが故か、暴力団組織における「シマ」管轄の修行も兼ね、「親父さん(つまりは結川の父である)」の指示で、彼らは2人揃ってホストクラブに出入りしていたことがある。思春期の青年達にとって、ホストクラブは非常に刺激的すぎる職場ではあったが。必要以上に器用で賢かった彼らは、管理する側だけではなく、働く側……つまり、ホストとしても十二分に適性を発揮していた。結川が女性に対するアプローチ術を学んだのは、まさにこの時期である。そして……この経験から、結川と修哉には衣装は何かと派手なものを選んでしまう趣味が醸成されていた。
「ところで、アニキ。移動するは良いとして……どこに行くんすか? 大体、まだバレてないだろうし……慌てて移動しなくたって大丈夫なんじゃ?」
「……どうだかな。俺と一緒に、苗字が同じ小春もドロンしたのは、失敗だったかも知れないな。……修哉もきっちり、捜査会議に名前だけは上がってたし」
「はぁっ? そりゃまた……どうして?」
「奥さんのオマケで、お前もフルネームで出てたんだよ。ほれ、あのオバサン……苗字はお前の方を名乗ってたろ?」
「そういう事っすか……。あんの、クソババア……! 何から何まで、足を引っ張りやがって……!」
そうして、またも冷蔵庫に八つ当たりをする修哉。しかし、今度は当たりどころが悪かったのか……間抜けな様子で「おぉ、痛い」と、手首を摩っている。
「……ん? そう言えば……修哉。そんなに絆創膏を貼って、どうしたんだ?」
「あぁ、これっすか? ……あのクソ犬に噛みつかれたんすよ」
忌々しげに、顎で修哉がケージを示せば。結川もどれどれと……渦中の「クソ犬」を見てやろうと、ケージを覗き込む。しかし、クロユリは結川に一瞥することもなく、顔を奥に向けた状態で丸くなったまま。やはり、微動だにしない。
「顔すら見せないか。こいつは相当に嫌われてるな……」
「仕方ないと思いますよ。だって、兄さんが思いっきり怖がらせたんですもの」
小春が詰るように兄を睨めば、仕方ないだろと肩を竦める修哉。しかしながら……結川は目の前にある丸い黒毛の山が、まさに宗一郎の愛犬なのだと認めると。みるみるうちに、険しい表情を見せ始める。
「こいつはまさか……例のクロユリか?」
「えぇ、そうよ。なんでも、兄さんが取ってくるカルテを間違えたとかで……病院に戻った時に、こいつを連れた男と鉢合わせしたんですって」
「その男って……まさか、犬塚か? 顔を見られていないだろうな⁉︎」
「そんなヘマはしてないよ。振り向きざまに一発お見舞いして、ノックダウンさせてやったぜ。で……こいつのマイクロチップに秘密がありそうな事も掴んでたから、動物病院からリーダーもセットで掻っ払って来たんだ」
だから、USBメモリの中身も最後まで確認できた……と、修哉は得意げに胸を張るが。一方の結川は不味い事になったと、眉間に皺を寄せる。
「……一刻も早く、ここから移動するぞ」
「えっ? アニキ……怖い顔をして、どうしたんすか?」
「小春も知っての通り、こいつは警察側では最重要クラスの保護対象だ。小賢しい犬塚のことだろうし……発信機を付けている可能性だって、あるかも知れない」
そこまで言い切って、結川がケージの扉を開けると……クロユリの首輪を掴んでは、彼女を無理やり引き摺り出す。クロユリも必死に抵抗するものの……ツルツルとしたケージの床では、爪を立てる事もできず。なす術もなく、厨房の床に組み伏せられてしまう。
「……グルルルル……!」
「この調子じゃ、俺達に懐くことはなさそうだ。んで……」
「ギャウっ!」
「おっと! ……危ない、危ない。小さくても猛犬だな、こいつは」
既のところで、クロユリの牙が届く前に手を引っ込める結川。しかし、彼女の首根っこを抑えた側の手で、器用に首輪をグルグルと回しては……留め具部分に、肉球型のチャームがついていることに気づく。
「……やはり、な。これ……スマートタグじゃないか」
「えっ? スマートタグ……?」
とうとう、悪い奴らに目印が気付かれてしまった。しかしながら、クロユリは新しい先生にもらったお気に入りを渡すまいと、ますます激しく暴れ始める。もうちょっとで、新しいご主人も来てくれると信じながら……渾身の力で、悪い奴の手を振り払おうともがいた。そして……。
「ギャウ、ギャウ! ギャウゥゥッ‼︎」
「ツッ⁉︎」
クロユリがメチャクチャに首を振ったせいで、首輪がスポンと抜けたと同時に、結川の左手首に焼けるような激痛が走った。見れば……結川の左手首にはザックリと2本の牙で切り裂かれた傷が刻まれており、ボタボタと大量の血液が流れ落ちている。
「結川さん!」
「この……この、畜生がッ!」
「キャンッ……!」
すぐさま結川に駆け寄る小春と、クロユリを思い切り蹴り上げる修哉。それでも……クロユリは投げ出された痛みに耐えながらも、必死に立ち上がる。
「グル……グルルル……!」
「クッソ……まだ、唸ってやがる……! こうなったら……」
……殺してやる。
調理台から包丁を持ち出すと、クロユリにジリジリと殺意混じりでにじり寄る修哉。しかし、対するクロユリは修哉よりも遥かに冷静で、遥かに状況をよく把握していた。敵意剥き出しのまま、牙を鳴らすと……今度は精一杯、遠吠えをし始める。
「アォ……アオォォォンッ!」
「うっせぇ! やめろ、やめろって!」
「ギャウゥゥッ……ギャオォォォンッ!」
それはもうもう、遠吠えというよりは警報に近いけたたましさ。
それでなくとも、ここは閑静な住宅街。そんな場所で浮いた存在感を放つ、今では閉店しているはずの店。それなのに……この明らかな騒音ともなれば。近隣住民からは苦情と同時に、通報される可能性だってあり得る。
「クロユリッ!」
しかしながら、今回ばかりは通報を待つまでもなかったようだ。クロユリの必死の叫びを聞きつけてやって来たのは……彼女が「新しいご主人」と思い込んでいる犬塚と、しっかりと武装した警察官達の群れだった。




