クロユリと悪いヤツら
クロユリは未だ、大人しく機会を窺っている。ちょっぴりお腹が空いたけれど、ご主人様がいなくなった時よりは遥かにマシだし……何より、犬なりに「悪いヤツ」だと思う相手に尻尾を振って、媚びるつもりはない。捕まえられた時に、思いっきり噛み付いてやったし。ちょっとは仕返しもできただろうか。
クロユリが言葉は分からないなりに、ケージの中から耳を澄ませていると。彼らは飽きもせず、「脱出」の算段を話し合っている。クロユリの首に頼りない目印が付いている時点で、無駄な足掻きではあるのだが。深すぎる事情を抱えている周藤兄妹には、クロユリの犬ながらの浅知恵に気づける余裕もない。
「……最悪の場合、この証拠を盾に逃げるしかないか。囮にもなるだろうし」
「そうね。この証拠を出しておけば、たっぷり時間稼ぎもできるはずよ」
クロユリの存在など、半ば忘れ始めた周藤兄妹が見つめているのは、パンドラの箱に収められていた禁断の証拠品。それは……苦労して南京錠をこじ開けた先に鎮座していた、ちっぽけなUSBメモリだった。
もちろん、周藤兄弟とてUSBメモリの中にこそ、宗一郎が隠し持っていた「東家グループの汚点」が吹き込まれているものとばかり思っていたし、憎んでも憎みきれない純二郎を追い詰める証拠だと信じ切ってもいた。だが……USBメモリには確かにグループ内部に燻る「汚点」の調査結果が残されていたが、それは周藤兄弟が求めていた「純二郎の汚点」ではなく……彼の従兄弟・「祥子の汚点」だった。
東家祥子が経営するエステティック・ショーコが赤字続きのお荷物であることは、周知の事実。しかしながら、なかなかにエステティック・ショーコはしぶとかった。
最近は少しずつ利益率が上がっており、「お荷物」の汚名返上も間近であったのだが……祥子の商才がないことを知り尽くしていた宗一郎は、緩やかとは言え、不自然な経営改善を訝しんだ。そして、その結果に……祥子が非常によろしくないビジネスにも手を伸ばしていたことを、突き止めてしまったのだ。
「医療用麻薬の横流しなんて、まぁまぁ、大胆なことで。しかも、警察と結託だなんて……どういう知り合いなんだろうな、これは?」
「それは、ここにも書いてあったでしょ? 組織犯罪対策部の幹部を買収した、って」
エステティック・ショーコでは美容脱毛のコースも用意されており、痛みを緩和するために「医療用麻薬」を用いていたらしい。もちろん、これはあくまで「医療目的での利用」の範囲であって、「嗜好品としての麻薬」とは成分も用法も異なるのだが。とは言え……日本では解禁されていない薬品なので、完全に薬機法違反である。そして、未解禁かつ、医療用としてのみ利用されるはずの薬物を横流しして利益を得ていたと言うのだから……これはどう考えても、犯罪行為にしかならないだろう。
「しっかし……本当に、どんだけこいつが好きなのかねぇ? あのおっさん、このクソ犬に何もかもを集中させやがって」
そうして今度は思い出したように、修哉がクロユリのケージをガシガシと蹴る。しかしながら……クロユリは何かに耐えるように、唸り声1つ、上げなかった。
「兄さん、やめなって。そんな事をしたら、ますます嫌われるじゃない」
「チッ! これだから、面白くない。ちょっとは情けなく鳴いてみたら、どうなんだ」
「……」
USBメモリには、東家祥子の身辺調査の報告書が日付ごとのフォルダに保存されていたが。最後のフォルダにだけ、何故かパスキーが設定されていた。それまでの内容だけでも十分な証拠になるだろうが、これだけの秘密が収められていたUSBメモリである。中身が気になるのは、人情というものだろう。
もちろん、周藤兄妹に宗一郎が遺したUSBメモリのパスキーなど、知る由もない。だが、運よく「東家会長殺人事件」の捜査班に潜り込んだ小春は、それまでの捜査結果の傾向から……宗一郎が常々、クロユリを主軸として後処理を済ませていたことに気づいていた。そして、犬塚から改めて提出されていた「クロユリの体調について」の報告書には、初診の動物病院での診断結果に異常はなく、レントゲンもマイクロチップが埋まっている以外に異物は見られなかったと、記載されていたのも知っていた。
「犬のクセに、澄ましやがって。マジでムカつくな……。しかも、冗談抜きでマイクロチップ番号がキーに指定されてやがったし。こいつが喋れたら、色々と吐かせてやるのによぉ……」
「だから、兄さん。やめなって。まだ、暴れ足りないの?」
「まぁ、な。……タヌキ親父を凹ませたところで、気晴らしにもなりゃしない」
「本当に……手当たり次第に暴れるのは、もうやめてよ。たまたま、クロユリが通っていた動物病院を探り当てられたから、よかったものの。……相手が間違っていたら、どうするつもりだったの?」
「別に? 他の病院でも暴れるだけだ」
「……もぅ……」
ちょっと脅しただけで、クロユリのマイクロチップが何かのキーらしいことを、弥陀院長がペラペラと喋ったのも思い出し。臆病者はサンドバッグにするに限ると、修哉はポキポキと指を鳴らす。彼らが弥陀動物病院にたどり着いたのは、半ば偶然ではあるものの。その偶然を引き寄せたのは、結川の調査結果が生きていると言った方がいいかもしれない。
結川は聞き込み調査……殊、女性へのアプローチに非常に長けている。そんな彼が宗一郎宅の周辺で、有閑マダム達を相手にお話をお伺いしたところ。クロユリはよく若い女性に連れられて、ほど近い弥陀動物病院にお世話になっていたと、証言が上がっていたのである。そして……結川は敢えて、クロユリに関係する内容は報告していなかった。それもこれも……些細な内容でも、犬塚に自分の調査結果が渡るかも知れないのが気に入らなかったから、らしい。
「しかし、警察署で結川のアニキと再会するなんてな。世間は冗談抜きで狭いな」
「そうね。でも、兄さんが結川さんとつるんでくれていたから、私もスムーズにターゲットに近づけたのだし。これは兄さんのお手柄でもあるわ」
「……そう言ってくれるのは、嬉しいが。あまり褒められた仲じゃないな、これは」
結川は確かに正式ルートで配属された、歴とした警察官である。だが、彼もまた小春と違う角度で警察組織に送り込まれた、スパイでもあった。結川陽平とは、警察としての仮の姿。彼の正体は……修哉が兄貴分として認識している、とある暴力団の構成員であったのだ。そして、彼を警察組織に送り込んだのは、他でもない。例の「新宿・歌舞伎町一斉検挙」で投獄された、暴力団組長・有川善蔵であり……本名・有川陽蔵、つまり結川の実の父であった。
それが故に、陽蔵……ならぬ、結川は犬塚に対して、並々ならぬ敵対心を抱いている。なにせ……折角、一斉検挙を事前に察知して、仲間達を高跳びさせようと手筈を整えていたと言うのに。犬塚とリッツ号がでしゃばったせいで、フイになったのだから。




