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吠えないクロユリ

「ただいま〜……って、誰もいないから、返事もないか」


 独身の一人暮らし。なんの変哲もない、2LDKのごくごく普通のアパート。それが刑事・犬塚の居城である。

 そんな我が城に、慣れたものと帰宅するものの。普段は返事がないのも分かりきっているため、「ただいま」なんて声に出して言わないのだが。今日は新しい同居人がいる事もあり、わざと声を出してみて……我ながら、間抜けにも思えて途端に恥ずかしくなる。それでも、胸元のクロユリから呆れたような鼻息が漏れたのを聞いては……犬塚はハハと乾いた笑いを漏らした。クロユリは柴犬の例に漏れず、()()()()なのかも知れない。


「ほれ、お疲れ様。……しばらくは一緒に住むんだから、早く慣れてくれよ?」

「……」


 手近なクッションの上にそっと、クロユリを降ろす。……相変わらず、クロユリは不気味な程に大人しい。顔を上げる事もなく、ただじっと何かに耐えているようにも見えたが……。


「ゲ、ゲホッ……ゲフゲフッ!」

「……! クロユリ! お、おい、大丈夫か⁉︎」


 クッションの上に落ち着いた途端、あれ程までに大人しいと思っていたクロユリが、急に激しく咳き込み始めたではないか。彼女のあまりに苦しそうな様子に一瞬、最悪の事態も頭を掠めたが。犬塚も、そこはかつて警察犬というパートナーがいた警察官である。もしかして……と、心当たりがあるなりに彼女のそばに駆け寄っては、注意深く様子を窺う。まさか、この様子は……。


「お前……何か、変なものを飲み込んだのか……?」

「ケホッ……! ケホケホッ……!」


 餌も食べない、鳴きもしない。そのあからさまな拒絶は、飼い主がいなくなったショックで弱っているだけだと思っていたが……どうやら、クロユリは相当に賢い犬だったらしい。犬塚が背中をトントンと叩くように摩ってやると、いよいよ隠し持っていた()()()()をクロユリが吐き出す。


「これは……!」


 彼女の唾液に混じって吐き出されたのは、南京錠のものと思しき鍵だった。なんの変哲もない金属片ではあるが……クロユリが隠し持っていたとなると、話は別だ。きっと、重要な証拠品に違いない。


「って、その前に! とにかく水だ、水!」

「ケホン、ケホン……!」


 鍵の詮索は後回し。苦しそうな咳が止まらないクロユリの息を整える方が先である。

 そうして慌てて手頃なボウルに水を汲み、犬塚がクロユリの口元に差し出せば。やや遠慮がちではあるが、クロユリが綺麗なピンク色の舌で水を掬い始めた。


「ほら、ゆっくり……ゆっくりでいい。それにしても……そうか。お前はこの鍵を隠しておきたかったんだな?」

「……」


 息も落ち着いたのか、何かを訴えかけるように犬塚を見上げ返すクロユリ。まだ警戒心は残っているようだが、初対面の時よりは少しばかり、目元が柔らかいように思える。


「そうか、そうか。偉いぞ、クロユリ。この鍵……きっと、大切な物なんだよな?」

「……(フス)」


 犬塚が大袈裟に褒めてみても、返事は相変わらず短い鼻息のみである。それでも……彼女が餌も食べず、吠えなかった理由も鮮やかに諒解しては、犬塚はむしろ大したもんだと感心してしまう。クロユリが吠えなかった理由。それは……重要らしい証拠品を飲み込んでいたからだった。


(ひょっとして、俺に手がかりを預けてくれたのか……?)


 物言わぬ犬相手では、彼女が考えている事は分からない。だが、それでも……きっと無愛想なりに、クロユリは犬塚を信用に足る相手だと認識してくれたのだろう。やっぱり愛想はないが、()()()()な物で……今度は首を傾げて、何かをねだる様な眼差しを送ってくる。


「そうだよな。腹、減ってるよな? ちょっと待ってろ。ちゃんとお前の飯も買ってあるから」


 大富豪の愛犬のお口に合うかは、定かではないが。ちょっぴりお高めな、ウェットタイプの餌を与えてみると……鼻先で警戒したように少し突いた後、クロユリが控えめな様子で餌を口に含んだ。しかし……。


「あっ、お口には合わなかったか? そう、怪訝そうな顔をするなって。今はこれしかないから、我慢してくれよ」

「……(フスン)」


 眉間に皺を寄せているのを見る限り、今回のお食事はクロユリの舌を満足させられなかったらしい。しばらく犬塚をじっとりと見つめていたが……これ以上の餌が出てこないと、判断したのだろう。いかにも不満げな様子を見せながら、クロユリは仕方がないわねとでも言いたげに、食事の続きをし始めた。


「ハハ……ゴメンな。次は餌じゃなくて、肉も用意するから」


 しかし、かなりの空腹だったろうに……クロユリの食事のペースは非常に緩やかだ。発見されるまでの2日間と訓練所での保護期間を含め、少なく見積もっても丸4日は何も食べていなかったはずなのに。……クロユリはがっつく事もなく、さも上品な様子で餌を口に含んでいく。


「なるほど……お前は筋金入りのお嬢様なんだな、クロユリ。……こんなに上品に飯を食う犬、見た事ないぞ」


 犬塚の言葉を理解しているのかどうかは、定かではないが。クロユリはゆっくりと餌を食べ終わると、チロリと犬塚に視線を送った後……クッションの上で丸くなり、静かに目を閉じる。クロユリはこのまま、お休みになるつもりのようだ。


(そう言えば……日本犬は基本的に、室内で用を足さないんだっけ。明日は外に連れ出してやった方がいいかもな……)


 それに鍵を飲み込んでいた事実もあり、念の為、動物病院にも連れて行った方がいいだろう。そうして明日の予定も早々に決めると、犬塚は支給の携帯電話に手を伸ばす。


(とりあえず、真田部長には一報入れておくか……)


 しかし、鍵の事は報告した方が良いだろうか?

 本来であれば、事件解決のヒントになりそうなものは逐一、報告しなければならないはずなのに。……なぜか、その時の犬塚には鍵の存在は伏せておいた方がいい気がして、ならなかった。明確な理由も、根拠もないが。クロユリは警察に鍵を託したのではなく、犬塚にこそ託してくれたような気がして……鍵の存在はしばらく、クロユリとの秘密に留めておこうと決めると。犬塚はクロユリを無事受け入れた事と、明日は動物病院へ行くことだけを伝えるのだった。

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