攫われたクロユリ
「先生! 先生ッ⁉︎」
「イッタタタ……。おい、そんなに耳元で喚くなよ……頭にも響くだろうが……」
犬塚達が駆けつけた「院長室」は、ある意味で凄惨な状況だった。
激しい揉み合いの末に、ガラスが割れたらしい資料ラック。勢いで飛ばされて、軒並み倒れている丸椅子。そして……床に鮮やかに飛び散った、真新しい血痕。そんなメチャクチャになった院長室の片隅で……篠崎はようよう、息を吹き返したが。篠崎の話によれば、振り向きざまに誰かに殴られたそうで……彼の右目上には痛々しい痣があり、お気に入りだと目されていたサングラスにもヒビが入っている。
「……よぅ分からんが、奴さん……ご丁寧に事件現場に戻ってきてな。そんで……揉み合いになったんだが……って、ユリちゃん! ユリちゃんは⁉︎」
言われれば、確かに。篠崎と一緒にいたはずのクロユリが忽然と姿を消している。犬塚も電話越しにクロユリが唸っていたのは聞いているし、おそらく彼女も応戦したものと思われるが……。
「まさか……」
「あぁ。……やらかしちまったなぁ。ユリちゃんは奴らに、攫われたんだろうな。……そこにあったはずのケージも1つ、減ってるし……」
おぉ、痛いと……篠崎がやれやれと頭を押さえながら、ヨロヨロと立ち上がる。そんな彼の元にも、心配そうに救急隊員が駆け寄るが……自分は応急処置のみで平気だと、気丈に答えつつ。手当を受けながらも、異常なまでに落ち着き払った様子で、スマートフォンを取り出した。
「えぇと……」
「先生? 警察へは俺達が連絡しますし、今は……」
「そう、慌てなさんな。……まさか、こんなに早く役に立つとは思わなかったが。ユリちゃんにGPSをつけておいて、正解だったな」
「はい? GPSなんて、いつの間に……?」
画面をチョイチョイとタップしながら、篠崎が今度は不気味な笑顔を漏らす。
篠崎の言い分によると……なんでも、元々は車の鍵にキーホルダー代わりにつけていたものだそうだが、ドライブ中にクロユリがやたらと興味を示したそうで、仕方なしにクロユリにスマートタグを譲ることにしたとのこと。
「俺のスマートタグはプリチーな肉球型だったからなー。ユリちゃんにも、俺のシャレオツさが伝わったんだろう。上目遣いでちょうだいって言われたら、そりゃぁもう、差し上げるしかないだろうよ」
「そうなんですか……?」
ドライブ中の「可愛いクロユリ」の様子を思い出したのか……あまり楽観視できない状態だというのに、ニタァと笑う篠崎。サングラスが割れているのも相まって、妙に物騒な空気も醸し出し始めた。
(犬塚さん……あのぅ、もしかして……。篠崎先生、どこか頭を強く打ったんじゃ……?)
(いや、この調子だと心配はいらないと思う。言っておくが、あれは先生の平常運転だ。……頭を打って、おかしくなったわけじゃない)
(そ、そうなんすね……)
あからさまに怪しげな篠崎を前に深山が心配するのも、無理はないが。……呆れたことに、篠崎は現状が通常の状態である。ちょっと怪我をしている以外は、至って普通なのだった。
「んで……移動中なのを見る限り、気づかれてないみたいだな」
GPSだと気付かれたら、すぐさま外されてしまうだろうが……怒るクロユリを前に、気づく余裕もなかったのではないかと、想像する犬塚。動物病院からケージが持ち出されていた時点で、彼らは狂犬になりつつあるクロユリをとりあえず、押し込めたのだろう。
クロユリは小柄ながらに、相当の闘志と根性はあるタイプだ。その上、自分を絶対に曲げない頑固さも持ち合わせる。そんな彼女を連れ出すのに、抱っこがあまりに危険なのは想像に容易い。
そして、もしクロユリ誘拐犯が宗一郎殺害の犯人だとしたら。……いくら暴れ回ったとしても、今回もクロユリの存命はキープしてくるだろう。理由は不明だが、「生かしておくのが面倒なお嬢様」を飼い主と一緒に葬らなかったのだから、今更クロユリも殺すとは考えにくい。……おそらく、彼らにもクロユリには生きていてもらわなければならない理由があるのだろう。
(この場合、クロユリの命は保証されるのかもしれないが……やっぱり、引っかかるな……。クロユリの後見人になるという目的があるのなら……彼女に嫌われているのでは、意味がない)
しかしながら……宗一郎は遺言の中で、「相続人はクロユリの後見人」としつつも、「後見人になる条件」は明記していない。曖昧な表現になったのは、おそらく「上林を相続争いに巻き込まないため」という名目も大いに含まれている……と、犬塚が勘繰るようになったのは、紛れもなく上林本人の事情聴取後ではあるが。犯人がそこまでの含みを見越せているかどうかは、全くの別問題だ。だからこそ、犬塚は今ひとつ不可解さを拭えないでいる。
どうして、宗一郎は「クロユリの後見人」の条件を明記しなかったのか……? その条件さえ明記しておけば、上林はもとより、クロユリ自身も危険に晒す可能性を抑えることもできたろうに。
(いや……違うか? 条件を曖昧にしておくことで、宗一郎氏は更に何かを隠そうとしているのか……?)
クロユリは確かに、ヴァイオリンと工具箱の鍵(共通と思われる)を隠し持っていた。だが、もし仮に……クロユリ自身にも何かの鍵が隠されているとするならば。彼らがクロユリを丸ごと攫ったのにも、一応は筋が通る。
「……ところで、先生」
「あん? なんだ、拓巳」
「先生を襲ったのは、1人でしたか? 2人でしたか?」
「……あんま、覚えちゃいないんだが……俺に殴りかかってきたのは、男だったな。マスクもしてたみたいだし、顔は見てないけど。あぁ、そうそう……そう言や、妙に目立つ感じのスーツの奴だったな」
振り向きざまに殴られて、相手の人相までも確認することはできなかったみたいだが、ほんのり光沢感のあるスーツの色味は、着衣には無頓着な篠崎の記憶にもしっかりと残っていた。
「目立つスーツ……。まさか……」
「犬塚さん……もしかして、もしかします……?」
「いや、まだ彼だと決まったわけじゃないが……いなくなった経緯も経緯だし、可能性はあるか?」
「お? なんだ、お前ら……心当たりがあるのか?」
現在行方不明の警察官に、目立つスーツを着こなしていた同僚がいた気がすると、犬塚と深山は嫌な予感に襲われる。もしかして、篠崎を襲ったのは……結川だったりするのだろうか?
(……確か、先生はこうも言っていたな……。院長先生の鼻を折ったのは、人を殴り慣れている男だろう、と。……意味合いは違うにしても、警察官であればある程度の武術は心得ている……)
突如浮上した「顔見知り」を犯人の一員だと決めつけるのは、まだまだ早いが。クロユリが誘拐されたという危機的状況も相まって、犬塚はよくない予感を募らせる一方だ。




