クロユリ、緊急事態です!
「なんですって⁉︎ それで? えぇ、えぇ……エッ⁉︎」
弥陀動物病院にほど近い、パーキングメーター前に車を停めては……今か今かと、重要参考人の登場を待ち侘びる犬塚と深山だったが。ブルブルと携帯電話が犬塚のポケットを揺らすので、着信相手を見つめれば。これまた、相手が篠崎なものだから、慌てて電話に出てみる。しかし……彼の口から飛び出したのは、悪い冗談にしか思えない、明らかな緊急事態だった。
「そうですか。分かりました。でしたら、俺達も一旦そちらに戻ります。それで……」
「……院長センセは結構、重症だぞ。場所が場所なもんだから、応急処置にも事欠かないが。……ちょいと触診しただけでも、鼻が折れてやがる」
専門は動物とは言え、篠崎も広義で言えば「医者」ではある。人間相手でもそれなりの「アタリ」は付けられると見えて、的確に「院長先生」の具合も伝えてくるが……。
「……別に死んじゃいないし、救急車も呼んだしで、命に別状はないと思うが。鼻は手術確定レベルで、悲惨な有様だ」
「しかし……どうして、弥陀動物病院の院長がそんな目に……?」
運転を深山にお願いしながら、犬塚は電話越しに当然の疑問を投げる。しかし、篠崎だって院長センセが暴行を受けた理由なぞ、知る由もない。こちらはこちらで、乾いた当然の答えを返してくる。
「さぁな。本人に話を聞けりゃ早いんだろうが、生憎とセンセは意識が飛んでてなー。……しかし、やっぱ妙だな」
「妙、と言いますと?」
「さっき、センセの鼻が折れてる、って言ったろ? でも、さ。……なまじ女の力で、ここまで綺麗に陥没するもんかねぇ……。こりゃぁ、どう見ても男の仕業だぞ。しかも、普段から人を殴り慣れているタイプの……な」
「では、もしかして……」
「ご訪問者は女1人だけじゃなく、男もいたんじゃないか? んで、院長センセが暴力を振るわれたのは、状況からして一種の拷問だとするのが自然かもな。……変な匂いがするし、失禁もしてるみてぇだ」
篠崎の何気ないレポート内容を知ってか知らずか、隣からスンスンとクロユリが鼻を鳴らしているのも聞こえてくる。そんな彼女の様子に、何かを察した篠崎が受話器をクロユリの口元に寄せたらしい。突如、ブフォブフォと荒々しい鼻息の音が聞こえてくるではないか。
「って……先生、何してるんですか!」
「キャフ! キャフ!」
「……あ、あぁ……うん、クロユリは元気そうで何よりだけど……」
電話越しでも、クロユリが尻尾を振っているのが目に見えるようで……犬塚は意図せず、脱力してしまう。おそらく、彼女が電話を代われとワガママを言ったのだろう。その上で、動物にはベッタリ甘い篠崎も彼女のご要望を飲んでは、こうしてクロユリと電話を代わってみせたのだ。
「下僕の心配をしてやるなんて、ユリちゃんはとっても思いやりがありまちゅね〜! ほらほら、下僕ももうちょっとで馳せ参じる……」
「グルルルル……!」
「えっ?」
しかしいつもながらの篠崎の犬撫で声が、クロユリの唸り声でかき消される。それと同時に、篠崎の手から携帯電話が落ちたらしい。犬塚の耳に、激しい衝撃音が響いてくるが……。
「先生! 先生⁉︎ どうしました⁉︎」
「ギャウ、ギャウゥゥゥ!」
通話中のまま放り投げられた携帯電話の向こうから聞こえてくるのは、激しく猛るクロユリの声。時折、篠崎の怒声も響いてくるのを聞くに……まさか、何者かに襲撃を受けている……⁉︎
「深山! 急ぐぞ!」
「はっ、はい! えぇと、この場合……」
「走った方が早い。車はこのまま置いていく!」
「そっすね! こうなったら……よし! 私の出番、到来ですね!」
「そうだな。頼りにしてるぞ、深山!」
「任せてくださいっ!」
頼もしい深山と一緒に、弥陀動物病院まで全力で走り出す。すぐ近くで潜伏していたので、少し走っただけで弥陀動物病院が見えてくる。そしてどうやら、篠崎が呼んでくれたらしい救急車も到着していた様子。この様子であれば、怪我人の処置は心配しなくていいだろうが……その怪我人が2人に増えていなければいいがと、犬塚はクロユリと篠崎の無事を祈らずにはいられない。