クロユリは引き続き、警戒中
犬塚が車を移動しつつ、深山の危なっかしいプランを却下している、その頃。後ろに停まっていたセダンを見送りながら……篠崎は弥陀動物病院の出入り口を見つめるついでに、クロユリの様子も窺っていた。
先程からクロユリは背筋をピンと伸ばしたまま、微動だにしない。電話越しのちょっと懐かしい声に少しだけソワソワしたものの。状況も理解しているのか、それ以降はまるで置物のように座っている。……恐ろしいまでの静寂だ。
(ふぅむ……。だとすると、やはり……あの女はクロってことかねぇ……?)
無論、篠崎は警察官ではないため、捜査や推理に関しては素人である。だが、獣医師としてはベテランでもあるため、患者さん達の傾向くらいは的確に掴む事はできる。それが故に、クロユリは非常に頑固であるが、空気を読む事に長けており、優先順位をしっかりと理解できているらしいこと……くらいは、篠崎もキッチリと把握していた。
(そのユリちゃんが、ここまで警戒するとなると……やっぱ、タダモンじゃなさそうだな。あの女)
正直なところ、クロユリは篠崎が今まで診てきた患者さんの中では、ダントツで賢い犬だ。もちろん、犬塚の元・パートナーであったリッツ号も非常に優秀な犬ではあったが……彼女は警察犬として厳しい訓練を乗り越えた、言わばプロ。そもそもペットですらないため、比較対象としては不適切か。
(この様子だと……ま、ユリちゃんも訓練士の躾が入っているんだろうが……)
一般家庭で飼われているペットともなれば、日常生活をベースとした躾が精々。……ここまでの頑なな「待て」ができる時点で、クロユリの地頭がいいとするべきだろう。
(しっかし……出てこねーなぁ……。何をそんなに話し込んでいるんだか……)
ここはいっその事、出て行ってしまうのもアリか。いや、待て待て……まずは連絡が先か。
一応は常識的な範囲で次の策を考えつつ、篠崎はスマートフォンを取り出すと、弥陀動物病院へと電話をかけてみる。病院の目の前にいるのに、なんとも間抜けな状況だが。クロユリと一緒にいる手前、彼女と一緒に突入は面が割れる可能性を考えると、リスクも高い。
「って、アナウンスが長げーなぁ、もぅ!」
「クゥン?」
「あっ、ゴメンな、ユリちゃん。お前さんが心配することは、何にもないからな」
「キュゥン……」
ついつい乱暴な口ぶりになってしまったと、クロユリに詫びつつ反省するものの。通話時間が2分に届きそうなところで、ようやく先方が電話口に出てくる。イライラを募らせつつも、相手の第一声を待ち侘びれば。先日、篠崎が粉をかけた時とは異なる、壮年男性のものではない若い女性の声が電話口に響く。
「あ? この番号、弥陀動物病院で合ってるよな?」
「えぇ、合っていますけど……」
「そんじゃ、院長センセ、いるか? 篠崎が遊びに行くぞって言えば……話、通じると思うから。代わってくれっか」
「す、すみません、現在院長先生は診察中でして……」
「ほぉ? そうかい、そうかい。……休診日なのに診察中だなんて、おかしな事を言うもんだね?」
「……!」
篠崎の言葉に、電話越しでも相手の緊張感が伝わってくる。篠崎は確かに、捜査も推理も素人だ。だが……豪胆で不遜な性格もあり、スパリと物事に切り込んでいってしまう悪癖がある。きっと、数多の「悪い飼い主さん」に接してきたせいもあるのだろう。篠崎は人様の不都合を掘り出すのも、お手の物なのだった。
「院長センセ、いるよな? ん? なんだ、代われないのか?」
「……しょっ、少々、お待ちください……」
明らかに動揺しているな。篠崎はニヤニヤと意地悪く口元を歪めながら、やっぱり面白くなってきたと思うものの。隣でクロユリが心配そうに見つめているのにも気付いては、ヨシヨシと頭を撫でる余裕も忘れない。
「ユリちゃん、怖がらなくていいからな。俺の悪人面は、今に始まったことじゃないぞ」
「キュ、キュゥゥン……!」
自分で自分の顔を「悪人面」だと言ってしまえる、自虐も披露しながら……院長先生のご登場を待つものの。しかし、一向に……目的の相手が出る気配がない。「お待ちください」と言われてから、電話口では「ジュピター」の保留音がずっと流れ続けたまま。……かれこれ、3分が経過しようとしている。
「……オイオイ、いくらなんでも……待たせすぎだろう……」
篠崎が呆れ果てて、いよいよ突入も辞さない……と、決断を下そうとしたその時。クロユリがまた、激しく唸り始めたではないか。
「グルルルル……!」
「ユリちゃん、どうした?」
「ガウッ! ギャギャウッ!」
「お、おい! 落ち着け、落ち着くんだ! 大丈夫だから……!」
「ガルルルルルルッ!」
助手席で獰猛に声を上げて、暴れるクロユリ。流石に噛み付くなんて乱暴はないものの、先程まで置物のようだった彼女とは、全くの別人……いや、別犬だ。そんな彼女の異常な興奮状態に、篠崎の頭に1つの嫌な予感が浮かんでくる。まさか……。
「クソッ! もしかして、院長センセ……電話に出られない状態なのか⁉︎ こうなったら……行くぞ、ユリちゃん! 突入だ! 院長センセがピンチだぞ!」
「ワンッ!」
そうと決まった訳ではないが、このまま待たされたところで、状況が進展する様子もない。退屈な膠着状態に痺れを切らした1人と1匹は、ようようバンから勢いよく飛び降りる。
(場合によっちゃ……それこそ、警察に連絡せにゃ、いかんか? いや、それより先に救急車か……?)
嫌な予感を募らせつつ。篠崎とクロユリは弥陀動物病院へと押し入り、そのまま伽藍堂なだけの受付を突っ切る。そうして、院長室らしき場所にたどり着けば……室内には椅子に縛り付けられ、顔中に痛々しい痣を作った院長らしき人物が気を失っていた。しかも……。
「ホンボシはドロンした後……か」
見れば、院長室の奥にはお勝手口があるらしい。どうやら……渦中の不審者はここから逃げたようだが……。
「しっかし、なーにを考えているのかねぇ、あの女は。……こんな状況で電話に出るなんて、間抜け過ぎんだろ。……居留守を使えばいいのに……」
「クゥン?」
「いや、そうじゃないか。そう言や……この病院、今日は休診日じゃなかったはずなんだよなぁ……。だとすると、怪しまれないために敢えて電話に出たのか……?」
篠崎がホームページで確認した限りでは、今日という日は弥陀動物病院は通常営業となっていた。しかし、掲示内容とは異なる休診日にしたともなれば……ホームページの更新が間に合わなかったのか、はたまた、急遽営業できない理由ができたのか。或いは……両方か?
「いずれにしても、こいつは救急車案件だな……。このまま、放置も不味いし……」
予断なく、目の前の壮年男性に脈と息がある事を確認し。篠崎は仕方なしに、救急車を呼ぶついでに……犬塚にも知らせなければと、再びスマートフォンを取り出す。いくら人相手には冷徹とは言え。……怪我人を放置できる程、篠崎は薄情ではなかった。




