クロユリは警戒中
犬塚には、深山がご機嫌な理由がよく分からないが。妙に乗り気な深山を助手席に乗せつつ……彼女に、「周藤小春」の経歴を調べるようお願いしたものの。ラップトップノートを器用に操りながらも、今度は深山が口を窄めては渋い顔をしている。様子から察するに、調べ物の成果は芳しくないのだろう。
「深山、どうだ? 何か分かりそうか?」
「う〜ん……なんだか、妙なんですよねぇ。真田部長から人事データベースも確認していいって言われて、周藤さんの経歴なんかも見てるんですけど……。交通課に所属していたことは、記載されているんですけど。職務内容や成果に関する内容は一切ないんですよ〜」
「……それは確かに、妙だな。受賞歴とかはともかく、普通であれば職務内容はあるはずなんだが……」
ハンドルを右に切りながら、犬塚はますます「周藤小春」の存在に疑念を深くしていく。
特別に閲覧を許可された人事データベースは、真田が受け持つ部署の警察官の職務経歴・学歴・受賞歴や成果に加え、年齢・生年月日・出生地に、現住所ナドナド……個人情報までも網羅した所謂「社外秘」のデータである。一般職員は閲覧不可であるため、真田のような部長クラスのアカウントがあって初めて、覗くことができる領域なのだ。それなのに……そんな機密文書ですら、周藤小春のディテールを把握しきれていない空白があるともなれば。犬塚は彼女の存在そのものが、ジワジワと真っ黒に染まっていく感覚に襲われていた。
(しかも……何となくだが、雰囲気が似ている気がするな……例の婿殿に)
信号待ちの間に、深山が示した画面を覗き込めば。そこには目鼻立ちもすっきり整った、いかにも優秀そうな女性警官の写真が載っている。そして……この切長な面差しは、いつかの捜査会議のホワイトボードに貼られていた、周藤修哉の近影に似ているように思えた。
「それはそうと……着いたな。で……うん。檀さんの車もまだ、停まっているな……」
深山が探してくれた情報を見つめるのも、そこそこに。弥陀動物病院の駐車場にするりと車を進めると、空いているスペースに停める。そうして窓越しに周囲を見やれば……前方のスペースに、今朝見たばかりのバンが停められているのにも、すぐに気づく。
「マユミさん? ……犬塚さん、それ……誰ですか?」
「えっ? あぁ……クロユリを診てもらった、知り合いの獣医師でな。クロユリが留守番はイヤだと駄々をこねるもんだから……預かっていてもらっていたんだよ」
しかし、何気ない犬塚の呟きに、深山が鋭く反応する。これまた、深山が怖い顔をし始めた理由がよく分からないが。なんだか、剣呑な雰囲気だと犬塚は身構えてしまう。
「へぇ……相手は女性でクロユリちゃん、大丈夫なんですか?」
どうやら名前の響きから、深山は篠崎を女性だと勘違いしたらしい。そう言えば、深山にもクロユリが女性の声に反応するらしいことは伝えてあったっけ……と思い起こし、これまた何気なく返答する犬塚だったが。
「いや、檀さんは男性だが……」
「へっ?」
シュルシュルと気が抜けるように、勢いを引っ込めた深山を訝しく思いつつ。そんな彼女を尻目に、篠崎の動向を確認しておこうと、電話をかけてみる犬塚。
ここまでの移動区間は霞ヶ関から、元麻布。比較的道は空いていたとは言え、彼から連絡を受けてから到着まで15分ほどかかっている。そうともなれば、変人獣医師が既に突入してしまっている可能性もゼロではないが……。
「拓巳か? それはそうと……あぁ、間に合ったみたいだな? 後ろの車、お前だろう?」
「えぇ。しかし、その仰りようだと……例の女、まだ出てきていないんですね?」
おぅよ……と、篠崎が軽い返事を寄越す。
クロユリ警戒警報が静まってから、おおよそ20分。篠崎によれば、「休診日」らしい弥陀動物病院に入ったきり、まだまだ件の女が出てくる様子はないと言う。どうやら、色々と間に合ったようだ。
「しかし、休診日なのに車が2台も停まっていたら、怪しまれますかね?」
「かもなー……。俺達以外に停めている奴もいないし、確かに悪目立ちしそうだな」
弥陀動物病院の駐車場には、休診日のせいだろう……ものの見事に、犬塚のセダンと篠崎のバンしか停まっていない。他に車が停まっていないのを見るに、例の女は徒歩でやってきたことになりそうだが……。
(参ったな。徒歩の相手を尾行するのに、車では余計に怪しまれてしまう……)
かと言って、徒歩でもゾロゾロとついて行ったら、それはそれで警戒されかねない。いくら尾行も慣れているとは言え、ここは高級住宅街のど真ん中。昨今流行っている特殊詐欺の影響もあり、白昼堂々スーツ姿でウロウロしていたら、不審者扱いも十分にあり得る。場合によっては、職務質問も待ったなしだろう。
「犬塚さん、どうしました?」
「あぁ……あの病院には、例の重要参考人になり得る女性が訪問しているらしい。できれば、多少は尾行して素性を掴みたいんだが。……車が停まっていないのを見るに、おそらく相手は徒歩でここまで来たんだろう。そんな相手を車で尾行するわけにもいかないし、かと言って……こんな場所をスーツで出歩くのも、なぁ……」
「でしたら、私が行ってきますよ?」
「えっ?」
エヘンと胸を張る深山が言う事には。犬塚では確かに目立つだろうが、小柄で女性の深山であればそこまで怪しまれないはず……という事らしい。特殊詐欺の受け子は別に、男性と決まっている訳ではないのだが……。
「大丈夫ですって〜。私、見た目は若いですし!」
「いや、それはそうかも知れないが……問題はそこじゃなくて……」
「何かに捕まったら、高校をサボったんですぅ〜……って、誤魔化します!」
犬塚は職務質問を受ける、受けない以前に、彼女に単独行動をさせるわけにはいかないと、危惧しているだけなのだが。変な方向に乗り気な深山は、なぜか職務質問を躱す方向で話を進めてくる。
(どう考えても無理があるぞ、それは……!)
単純に考えて……相手が普通の警察官であれば、こちら側の素性を明かせばいいだけのこと。わざわざサバを読む必要もないだろうに。
「とにかく……車を移動した方が良さそうだ。尾行については、実際に彼女が出てきてから考えよう」
「えぇ〜? 別に今のプランでいいじゃないですか〜」
「……単独行動はしないに越したこと、ないだろ?」
「あっ、それもそうですね。勝手な事をしたらそれこそ、園原課長みたいに大目玉を食らっちゃいますし……」
深山の口ぶりからするに、園原はコッテリ絞られたんだろうなぁ……と、犬塚はやはり苦笑いせざるを得ない。温厚な真田に雷を落とさせる時点で、彼女の失態は余程の勇足だったようだが。これ以上、真田の心労を増やしてもいけないと、犬塚は車を移動させるついでに、深山には状況の報告をお願いするのだった。