唸るクロユリ
携帯電話の着信相手を見やれば、またも電話の主は変人獣医師その人らしい。しかしながら、篠崎の方で何かトラブルがあったのかも知れないと……犬塚は真田に了承を得つつ、電話に出てみるが……。
「……遅い」
「あぁ、すみません、先生。それで? いかがしましたか?」
開口一発、不機嫌なお言葉を頂いて、苦笑いしてしまう犬塚だったが。漏れ聞こえてくるエンジン音や、ラジオの音声からするに、篠崎は車の中から電話をかけて来ているようだ。
「クロユリはいい子にしてますか?」
「そりゃぁ、もう。俺史上一番と言っていい程、ユリちゃんはお利口だぞ? いやぁ……こんなにも賢い犬、なかなかいないだろうな」
篠崎はどんなに不機嫌でも、動物の話題を振ると饒舌かつ、ご機嫌になる傾向がある。きっと、クロユリもすぐ隣にいるのだろう。犬塚がクロユリについて言及すると、電話口の向こうからは……これまたちょっと気色の悪い、犬撫で声が聞こえてくる。
「先生、ところで……ご用件は?」
「……出たぞ」
「はい? 出たって……何がですか?」
「だから、出たんだよ。……例の女が」
「例の女……って、もしかして!」
「あぁ。そのもしかして、だ」
誰も得しないホラー感を演出しながら、声を潜め始めた篠崎によれば。勢い勇んで、篠崎が「悪徳獣医師(完全なる誤解と偏見含む)」のクリニックに乗り込もうとしたところ……クロユリを探していると篠崎の病院にもやって来ていた、「怪しげな女」が弥陀動物病院へと入っていくのを見たそうだ。しかも……。
「……女が車のすぐ脇を通ったら、ユリちゃんが突然、唸り出してな。興奮状態がなかなか静まらないもんだから、車の中から様子を見ることにしたんだが……。ユリちゃんの反応からしても多分、顔見知り……いや、この場合は鼻見知りか。いずれにしても、あの女……相当にクロっぽいぞ」
「なんですって……?」
気取り屋のクロユリは多少は唸っても、すぐに冷静さを取り戻しては、「ちょっとした間違いでしたのよ」とばかりに、すまし顔をするのが常である。彼女は概ね頑固ではあるが、自分の間違いはすぐに認められるし、正せるタイプでもあるらしく……犬塚が「大人しくしてくれ」とお願いすれば、すんなりと言うことを聞く素直さも持ち合わせている。
だが、そんなクロユリがすぐに聞き分けないとなると……例の「鼻見知り」は、クロユリにとっては最大の警戒対象ということなのだろう。犯人を知っていると思われる彼女が、そこまで反応するとなると……確かに、相当な「クロ」に近いのは間違いなさそうだ。
「まぁ、場所が場所だからな。車に犬がいるのも不自然じゃないし、幸いにも、ユリちゃんの声には気付かれなかったみたいだが。ここで出て行ったら、こっちも見つかるかも知れんし、俺はこのまま奴が出てくるのを待ってみる。しかし、だな。……俺が思うに、女の方は尾行した方がいい気もするんだが。くぅ〜……! それでも、俺にはユリちゃんの既往歴を確認すると同時に、悪徳獣医師を成敗するお役目が……!」
「……お役目は既往歴の確認だけにしておいてください。分かりました。俺もすぐ、そちらに向かいます」
「そうこなくっちゃな。クク……面白くなってきた」
最後の不気味な笑い声に、犬塚は別の不安が拭えないものの。篠崎は確かに変人だが、決して馬鹿ではない。犬塚が行くまでの間は、それなりに常識的な範囲での待機をしていてくれるはずだ。
「真田部長、すみません。……すぐに出かけなければならなくなりました」
「そのようだな。本当は事情を聞きたいところだが……その様子だと、急ぐのだろう? 説明は後でも、構わんよ」
「ありがとうございます。状況は落ち着いたら、すぐに報告します」
「あぁ、そうしてくれると助かる。……どうせ、今ここには肝心の物的証拠がないんだ。犬塚にも、外に出てもらった方が有意義だろう。だから……深山君!」
「はいっ!」
「突然で悪いが、犬塚に同行してほしい。彼のサポートを頼めるか?」
「もっちろんです!」
真田の機転と提案に、深山が元気に返事をする。場合によっては、「例の女」のボディチェックをしなければならないかもしれないし、女性警官の同行もあった方がいい。それに、何より……深山は意外な部分で、非常に頼りになる存在でもあるのだ。
「ささ、犬塚さん、行きましょ! なぁに、危ない目に遭っても、私がきっちり守ってあげますから!」
「そ、そうだな……。深山は荒事方面でも、頼りになるもんな……」
「そうでしょう、そうでしょう!」
フフンと得意げに胸を張り、深山は乗り気も乗り気である。そんな深山に若干、引きずられる格好で部屋を後にする犬塚だったが。こう見えて、深山は冗談抜きで腕っぷしが強いのだ。柔道と合気道に精通しており、身体能力が非常に高いのが特徴で……彼女の小柄な見た目に騙され、痛い目に遭った被疑者や同僚は数知れず。自分はそうならないようにしなければと……犬塚はやっぱり、苦笑いせざるを得ないのだった。




