クロユリは断固、留守番は拒否します
(さて、どうしたものか……)
真田から「鍵についての心当たりを教えて欲しい」と要望があり、率直に「心当たりの正体」を白状したまでは良かったが。まさか、こんなにもアッサリと自宅待機が解かれるなんて、思いもしなかった。おそらく、それだけ切羽詰まっているという事にもなる……いや。どちらかと言うと、互いに痺れを切らしたと言う方が正しいかも知れない。
(それはそうと……これはどう判断すればいいんだろうな……)
そうして迎えた朝。ゴロリと寝返りを打った犬塚の鼻先には、しっとりとした別の黒い鼻があった。スピスピと気持ちよさそうな寝息を立てているのを見る限り……彼女はまだまだ、夢の中らしい。その安心し切った様子に、やはり変な懐かれ方をしてしまったと……犬塚はむくりと起き上がりつつ、頭を掻く。
……クロユリは、犬塚が一時的に預かっているだけだ。本来であれば、彼女を大切にしてくれる「後見人」に返さなければならない。それなのに……こうも無防備な姿を見せつけられると、別れ辛くなるではないか。
(それは追々、考えるか……。今は寝かせておいてやろう……)
まさか人間の女性ではなく、犬のお嬢様と同じ布団で寝る羽目になるとは。……こんなことは相棒だった警察犬だったリッツ号とさえ、なかったが。その辺りはやはり、ペットだからと言う括りで考えてしまって良いだろうか。
そんなことを考えつつ、出かける準備をする犬塚。園原チームの暴走もあってか……真田の方もやはり、これ以上の犬塚籠城はよろしくないと判断したのだろう。ようよう在宅勤務が解かれるとあっては、心なしか気分も軽やかになる……のであれば、良かったのだが。
「……クゥン……」
「あっ、起こしちゃったか? まだ寝てていいぞ」
「キュゥゥウン……」
努めて、優しく言ってみるものの。クロユリの方は「お留守番」の予感もしっかり嗅ぎ取った様子。いかにも悲しげな顔で、ウルウルと瞳を潤ませている。
(参ったな……)
未だに本署前には噂のクロユリを一眼見ようと、マスコミが屯している。そのため、真田からも可能ならばクロユリは「自宅待機継続」と指示されていたのだが……。こうなってしまうと、久しぶりの出勤も後ろ髪を引かれすぎて、非常に切ない。
「クロユリ、悪いんだが……今日はお留守……」
「ギャギャウ! ギャウゥゥゥ……!」
しかも、クロユリは都合が悪いことに、鮮やかに何かを悟った様子。犬塚が全てを言い切ることさえ許さず、ガバと起き上がると同時にガルガルと唸り始めた。そうして、置いて行かれまいとそそくさと玄関へ移動をしては、しっかりとリードを咥えている。
「あ、もちろん朝の散歩は行こうな? それで、飯を食って……」
「キュゥゥゥゥン……!」
「いや、だから……」
まさに膠着状態である。お留守番を認めないクロユリと、今日は自宅待機をしていてほしい犬塚と。それもこれも、クロユリを守るためなのだが……いくら賢いとは言え、クロユリは犬である。「あなたのためだから」と言ってみたところで、通用しない。
(参ったな……。こんな状態で、置いていったら……うん?)
仕方なしに、散歩に出かけようかと……携帯電話を手に取ると。画面には「着信アリ」と表示されている。
(……まだ、朝の6時なんだが……アハハ、なんだろうな。よっぽど、俺が恋しいんだろうか?)
着信時間はなんと、5時30分頃。普通に考えれば、非常識な時間帯であるが……相手が相手なので、仕方ないかと割り切る。……変人の獣医師はどうも、時間の感覚も基本的にズレている。
「もしもし? 先生、どうし……」
「折り返しが遅い!」
「……いや、そうは言われましても……5時台に電話がかかってくるなんて、思いませんって……」
マナーモードにしてあったから、気づきませんでした……は言わない方がいいかも知れない。
「それはそうと……どうしました?」
「昨日の相談についてだが……もし良ければ、俺の方でクロユリちゃんを預かれんか?」
「えっ?」
聞けば、篠崎はしっかりと先方の獣医師に粉をぶちまけたそうで。怪我については否定されたようだが、何やら後ろ暗いことがあるのか……クロユリのマイクロチップに秘密がありそうな事を吐いたらしい。
「マイクロチップ……ですか? えぇと……」
「マイクロチップには、飼い主の国籍コードやら、個体識別コードやらが記録されているんだが……専用の機器がないと情報を読み取れないもんでな。普段はお目にかかる機会はないだろう。まぁ……ペットが迷子になっちまった時のためのもので、言うなれば外れない迷子札みてーなもんだし。……迷子にさえさせなきゃ、そもそもお世話になる機会もないんだけどよ」
しかしながら、マイクロチップのコードは指定できるものではないし、サイズや規格も決まっているため……マイクロチップ自体が細工されている可能性は低いと言う。
「どっちかっつーと……秘密があるのは、個体識別コードが何かの鍵になってるとか……そんな事だろうとは思うけど。そんで……」
きっと電話の向こうで、篠崎はガリガリと頭を掻いているんだろうな……と、普段の様子から想像しては。犬塚は次の言葉を待つ。しかし……。
「と、言うことで。今日は俺が自ら、クロユリちゃんと一緒に潜入捜査してきてやるよ。クックック……悪徳獣医にカチコミたぁ、血が滾るぜ」
「……すみません、先生。お願いですから、荒事は勘弁してください。第一、先方が悪徳獣医師だなんて、決まったわけではないでしょうに。そんでもって……クロユリも。頼むから、こんな事で乗り気になるなよ……」
「キャフ! キャフキャフ!」
「おぉ! クロユリちゃんも先生と来てくれるかな〜?」
「ワンッ!」
「いや、待ってください。……勝手に合意を取らないでくださいよ……」
それでも、今日ばかりは好都合かも知れないと、すぐさま思い直す犬塚。クロユリがお留守番を拒否している以上、家に置いておく方が却って心配である。暴れるだけならまだしも……彼女の場合、タチの悪いイタズラもしていそうで、恐ろしい。
(意外とクロユリも先生に懐いているみたいだし……あれで、先生は本職はプロだしな。考えたら、誰よりも安心できる相手かも知れないな……)
人間相手には冷酷でも、動物相手には深い愛を注ぎ込む篠崎に預ければ、万一にクロユリの体調が悪くなってもすぐに対処してもらえるに違いない。そうともなれば……今日限りは、篠崎にペットシッターをしてもらうのも一考だ。




