ヴァイオリンとクロユリ
宗一郎氏が大切に保管していたヴァイオリンは、上林の母親の形見の品だった。純粋にコンサート関係者ゆかりの品だろうと、思っていた犬塚にとって……上林が語る宗一郎像は、明らかに「冷徹な経営者」のそれではなく、ますます混乱させられる。……どうやら宗一郎が冷徹だったのは、経営者でいる時だけだったらしい。
「……会長はビジネスには非常に厳しい方でした。私が会長の元で働きたいとお願いした時も、私情は持ち込むつもりはないと、通常の採用試験から受けるように言われまして。……私は最初から、過分にお支払いいただいた学費を返す意味もあり、無償で働くつもりだったのですけれど……会長はそれさえも、よしとなさいませんでした」
しかし、上林は並々ならぬ努力家であり、幸いにも地頭の良さにも恵まれていた。いわゆる東京六大学には数えられないものの、早稲田大学・慶應義塾大学と同じレベルだと目される上智大学を卒業しており、国際色豊かな大学の強みもあってか、海外留学も経験済み。その上で、容姿端麗ともくれば。……ややもすると、彼女を採用しない企業の方が少ないかもしれない。
そうして、難なく東家のグループ企業に採用された上林は並外れた優秀さと、宗一郎の抜擢もあり……総務部へ配属され、晴れて宗一郎の第1秘書として敏腕を振るうこととなる。おそらく、彼女が「ヘッドハンティング」によって東家グループに入社したと言われていたのには、宗一郎の異例の指名を示してのことだろう。その一方……彼女には、内々に秘密の条件が課せられていた。
「会長が私を最初から秘書に取り立てたのには、目の届く範囲に留める意図があったようです。そして……私が個人的にお願いされていたことは、2つ。1つは給金は通常通りに支給するから、しっかりと受け取ること。そして、もう1つは……純二郎様の醜聞を漏らさないこと、でした」
「なるほど。それは要するに……宗一郎氏は、純二郎氏を守ろうとしていたと言うことですかな?」
真田の問いに、上林は「そうですね」と淡々と静かに答える。声色には明らかに悔しさが滲んでいるが、恩人でもある宗一郎の願いを無碍にはできなかったのだろう。上林は宗一郎の存命中は確かに、約束を守るつもりでいた。しかし、その宗一郎氏はもういない。だからこそ……上林は手始めに警察への暴露に踏み切ったのだ。
「それ、純二郎氏はご存知だったのですか?」
「……ご存知ないと思います。いいえ、この場合は純二郎様だけではありませんね。三佳様も同様のスキャンダルに事欠かない方でしたから。……会長はビジネスに私情を持ち込みたくがない故に、秘密裏に後処理もこなしておいででした。そして……純二郎様や三佳様と一緒に東家グループを盛り立てることを、夢見てもいたのです。……今となってはもう、会長の夢は絶対に叶いませんが」
「しかし、だとすると……上林さんの証言は、宗一郎氏の遺志を反故にする事になるのでは?」
「えぇ。それは承知しております。ですから、私は警察のお2人にだけ、話す事にしたのです。証言ついでに白状いたしますと。……ユリちゃんを連れてきて欲しいとお願いしたのは、お2人がお話ししても良い相手かどうか、見定める意味もありました」
そこまで言って、もらったおやつを満足そうに頬張るクロユリを見つめては……上林が穏やかに目元を緩める。
「とても、失礼な話ではありますが……ユリちゃんの様子を見て、犬塚さんは信用できそうだと判断しました。あのユリちゃんが抱っこを許している時点で、きっとよくしていただいたのだと思います。……ですから、私は知り得ることをお2人にはお伝えしてもいいと、考えます。一方で、お2人が事情聴取にやってきたのは、私が容疑者として候補に上がっているからなのでしょう?」
「い、いえ……何も、そこまでは」
一流企業の元秘書ともなれば、その辺はしっかり見抜いてくるか。犬塚は目の前の美人の様子を予断なく窺いながら……やはり彼女はシロだろうと、踏む。
あまり、的確な判断材料にはならないかもしれないが。上林の視線はごくごく普通……いや。むしろ、真っ直ぐなものだったことからしても、嘘をついているようには思えない。……不誠実な人間は無意識のうちに、視線を泳がせる傾向がある。嘘をついている時は右脳が活発になるので、右上に泳ぎやすいし、何かを思い出そうとしている時は左脳が活発になるので、左上に移動する事が多い。だが、今の今まで……上林の視線には怪しい動きは見られなかった。
(クロユリも一緒にと言ってきたのには、俺達を試す意味もあったんだな……)
クロユリ同伴指定の意図は、クロユリの後見人になることを目論んでのことかもと、犬塚は漠然と思っていたが。宗一郎氏による母親への弔いと、資金援助の話からしても、上林には相続人になる野望はあまりないと見て良さそうか。
「いいのです。……会長に最も近い場所にいたのですから。真っ先に私が疑われるのは、当然の成り行きです。ですので、容疑を晴らす意味でも、もう1つ……あのヴァイオリンに隠された秘密をお伝えしておきますね」
「あのヴァイオリンに……秘密?」
犬塚が内心で上林を容疑者から外しかけていると。明らかに重要なことをサラリと言い出すから、慌ててしまうではないか。
「はい。……ヴァイオリンにはF字孔から見える場所に、製造番号やモデル名のラベルが貼ってあります。そして、会長はあのヴァイオリンの製造番号を“とある機密文書”が保管されている金庫の暗証番号に指定していました」
「その機密文書とは……?」
「……東家グループの汚職と警察との癒着に関する、調査結果報告書です」
「なんですって⁉︎」
「会長は東家グループの膿を絞り出すために、独自に調査を進めていたのです。そして……全ての証拠が揃った段階で、あのようなお姿になってしまい……!」
宗一郎の死に際も思い出したのだろう、上林が再び涙を流し始める。それでも、最後まで話し終えなければと、気丈に涙を拭うと。……キリッと顔を上げて、絞り出すように証言を続ける。
「……汚職の内容までは、私も詳しくは知らされていません。ですが……公表されれば、東家グループの根幹を揺るがしかねないものではあったのは、間違いなさそうです」
そうして上林が卓上にあったスケジュール帳を開いては、中に書かれていた「何か」をメモに書き写す。そして、それをそのまま真田へと渡してくるが……。
「上林さん、これは?」
「会長室の奥にある、執務室の暗証番号です。……機密文書は、その執務室の金庫の中に保管されているはずです」
「し、しかし、我々にそれを知らせて……どうしろと……?」
「……私は正直なところ、会長に孤独を強いた東家グループなんて、潰れてしまえばいいとさえ思っています。ですが、一方で……会長が守り抜こうとした企業を存続させたい気持ちも、確かにあるのです。中の機密文書をどのように扱うのかは、警察の判断に任せますが……私が知り得る事全てを、犯人逮捕の一助にしていただければ。……他は何も、言う事はありません」
強い意志とともに、上林は柔らかく微笑んで見せると……犬塚の足元に戻ってきては、「抱っこしてちょうだい」と甘え始めたクロユリについて、言及する。
「……ふふ。やっぱり、ユリちゃんは犬塚さんを頼りにしているのですね。……大丈夫。ユリちゃんがこんなにも信頼している方達ですもの。……きっと会長の無念も晴らしてくださると、信じていますわ」




