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クロユリと秘書

 苦い思い出を胸にしまいつつ、犬塚がエレベーターのインジケーターを眺めていると。指定の16階にたどり着いたと、「チン」と軽やかにベルの音が鳴る。上林の()()はそれなりに高級なマンションと見えて、エレベーターもどこか、厳かで落ち着いた雰囲気だ。


「上林の部屋は1608号室だそうだ。えぇと……一番奥のようだな」

「しかし、随分と立派なマンションですね。上林は自前の経済力も相当にあったと見て、良さそうですか」

「だろうな。……ちょっと下調べもしてみたが、このマンションは全棟分譲タイプだ。かなりの稼ぎがないと、購入できる物件じゃないぞ」


 その中でも、上林の部屋はとりわけ控え目な間取りらしい。真田リサーチによれば、一番端の角部屋は他の部屋の間取りよりも、二回り程小さい設計になっているそうな。まぁ……それでも、犬塚の自宅よりは遥かに広いのだが。


「ごめんください、上林さん。警察の真田です」


 犬塚がクロユリを抱っこしながら、そんなことを考えていると。早速、真田が1608号室のインターフォンを鳴らしている。どうやら、上林が辞職したと言うのは本当らしい。平日の昼間だと言うのに、すぐさま反応が返ってくる。


「はい、ただいま。少々、お待ちください……」


 しかも、彼女には普通であれば抱くであろう、緊張感も警戒心もないらしい。警察が相手だと言うのに、軽やかに微笑んで見せると、どうぞどうぞとばかりに室内に招き入れてくる。しかも……。


(相手が女性だと言うのに……クロユリ、吠えないな)


 深山の声には電話越しでさえ、激しく警戒していたと言うのに。意外な程に、クロユリは上林相手には落ち着いている。まるで彼女は犯人ではないと、言っているかのような……。


「クゥゥン……!」

「ユリちゃんも無事だったのね。……本当に、よかった。会長だけではなく、あなたまでいなくなったとなったら、私……どうしたら、いいか……!」

「上林さん、お、落ち着いて!」


 甘えた声を出すクロユリの頭を撫でるついでに、涙を流し始める上林。相手が綺麗な女性だからと言うわけではないだろうが。真田が慌てに慌てて差し出したハンカチを、素直に受け取りながら……上林はようよう涙を拭うと、一行をダイニングへと案内する。


「す、すみません……。すぐにお茶をご用意しますね。それと……ユリちゃんには、お水とおやつを出さなくちゃ」

「ワンッ!」


 上林は普段からクロユリのことを「ユリちゃん」と呼んでは、()()()()()()()様子。明らかに上林には懐いているクロユリの様子に、犬塚は当てずっぽうなりにも彼女は()()だろうと勝手に判断していた。


(……もしかして、宗一郎氏は上林にこそ遺産を残したかったのでは……?)


 もちろん、愛犬家で通っていた宗一郎のこと。あの特殊な遺言書は、万が一に自分が先立った場合のクロユリの生活を保証する手段だとするのも、一考だ。金銭的な部分でクロユリを守ろうとしただろうことは、予想に難くない。

 一方で、宗一郎は相続人を「クロユリの後見人」と、曖昧な表現で濁している。もし、宗一郎が遺産を残したい相手に上林を想定していたのであれば……彼女を直接指定すればいいだけのこと。わざわざクロユリを()()()()()()()は全くない。


「ところで、そろそろ本題に入ってもよろしいでしょうか?」


 犬塚がそんな遺言書の不可解さに頭を捻っていると。差し出されたお茶を受け取りつつ、真田が事情聴取を開始している。そうともなれば……犬塚も、そちらに集中せざるを得ない。


「……もちろんです。犯人が捕まるのなら、いくらでも協力します。……職場では話しづらかったことも、ここでは思い切り話せると思いますし」

「話しづらかった事……ですか? それは一体、どのような内容でしょうか?」


 真田に話を促され、静かに彼女の知り得ることを語り出す、上林。そもそも、彼女はヘッドハンティングと言うよりは……宗一郎への()()()もあり、彼の元で働いていたのだそうだ。


「私は半ば、会長に育てていただいたと言っても、過言ではありません。……会長は私にとって第2の親であり、恩人でもあるのです」


 そうして手近にあった飾り棚から、写真立を1つ持ってくると……真田と犬塚に見えるように示す、上林。そこには上林によく似た綺麗な女性と、愛らしい少女が写っている。よくよく見れば、女性の方はヴァイオリンと弓をどこか誇らしげに構えていた。


「……母と、幼かった頃の私です。ふふ。こうして、ちょっと自慢げにヴァイオリンを掲げていますけど……母はヴァイオリニストとしては、あまり腕がいい方ではなかったみたいです」


 上林の母親・悠美(ゆうみ)は夜はジャズバーでヴァイオリンを弾く事を続けつつ、昼間はスーパーでパートタイマーとして働き、夢を追いかけながらも、育児もこなしていた。確かに生活は豊かではなかったが、悠美は娘である直美を蔑ろにすることはなく、ヴァイオリニストとしては微妙でも、母親としては立派な女性だった。だが……。


「贔屓目に見ても、母はこの通り……とても美人でしたから。勤め先で良くないお客様に絡まれることも、多かったみたいですし……何より、()()()()()()からも()()()()()を出されることもあったようです。そして、その中には……当時、ミュージシャンを目指していた東家純二郎様も含まれていました」

「なんですって……?」


 さりげなく、純二郎紹介の段では「ミュージシャンを目指していた」とあったが。どうやら、若かりし頃の純二郎はミュージシャン志望というよりは、東家の御曹司として()()()()()()()()()()ようで。相当に()()()()をしては、かなりの女性を泣かせてきたのだろうと、上林はやや悔しそうに苦笑いする。


「当時幼かった私には、何が起こったのかは理解できなかったのですが。……今思えば、おそらく母は純二郎様達に乱暴されたのでしょう。……それ以来、母は働くことはおろか、ヴァイオリンを弾くこともできなくなり……とうとう私を残して、自殺しました」

「……!」


 貧しい母子家庭に残されたのは10歳の娘と、使い古された1挺のヴァイオリンのみ。上林の父親はとうの昔に他界していた上に、悠美自身は実家とは疎遠だったこともあり……彼女には、すぐに頼れる親戚らしい親戚もいなかった。


「そんな中……手を差し伸べてくれたのが、東家宗一郎会長でした。会長は純二郎様が母に何をしたのか、ご存知だったようです。子供だった私にさえ、こんな事になってすまないと、純二郎様の代わりに頭を下げてくださいました。そして、彼なりの罪滅ぼしの形でもあったのでしょう。会長は私が大学まで難なく卒業できる程の金額で……何の変哲もないヴァイオリンを買い取ってくださったのです」

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