クロユリは(仕方なく)接待する
「……(フスン)」
何かを訴えかけるようなクロユリの鼻息を、敢えて無視しつつ。犬塚がバックミラー越しに、後部座席を覗き見れば。そこにはクロユリの不機嫌さえも乗り越えて、彼女に抱きつく中年男性の姿があった。
「クロユリちゃぁ〜ん! とーっても、お利口でちゅね〜!」
「……グルル……キュゥゥン……」
バッチリ眉間に皺を寄せているクロユリに、心の中で詫びる犬塚。チロリチロリと、クロユリも「助けてちょうだい」の視線を送ってくるものの、犬塚にはどうしようもないことも分かっていると見えて……渋々と接待に応じているらしい。そんな健気なクロユリのために、運転中の犬塚にできることと言えば。……彼女にメロンメロンな中年男性、真田の意識をお喋りで逸らすことくらいか。
「ところで、真田部長。昨日の今日で、よくアポが取れましたね? 東家グループの状況からしても、上林もそう暇ではないでしょうに……」
「あぁ、その事か。……実は彼女、退職したらしい」
「えっ⁉︎ そりゃ、また……どうして?」
「それに関しても、話してくれると言っていたぞ。どうも……上林も、内々に伝えたいことがあるそうだ」
「……」
その上で……と、ようやくお仕事モードに戻った真田が話を続ける。彼がこうして犬塚と2人きり(ただし、お嬢様同伴)で聞き込みに出かけると言い出したのには、署内にも不審な動きがあったからだそうだ。
「先日、マスコミにクロユリの存在が漏れていただろう?」
「え、えぇ……あの時は随分と早耳だと思いましたが。宗一郎氏が愛犬家だったのは有名だったようですし、ネタの出どころはご近所さんだろうと考えていました」
「無論、私も最初はそう思ったよ。だけど、訓練所から警察官がクロユリを引き取っただなんて情報は、絶対にご近所さんからは出てこないはずだ。それなのに……あいつらは知っていたんだ。警察官がクロユリを引き取ったことを」
そこまで言い切って、さも情けないとため息を吐く真田。そうしてやれやれと首を振りつつ、クロユリの肩を抱いて「よしよし」と気分を紛らわせているが。一方で、いいようにお触りされているクロユリの眉間の皺が、一層険しくなったのも見届けては……今夜もしっかりと上等なお食事を献上しなければと、犬塚は内心で苦笑いしていた。
「そういうこと、ですか。要するに……署内にブンヤとつるんでいる奴がいるかもしれないんですね」
「おそらく、な。まだ、誰かは分からんし、情報漏洩ルートがウチからとも決まったわけじゃないが……犬塚がクロユリを引き取ったと同時に、あの騒ぎようだからな。……内部に虫のお仲間がいると、考えておいた方がいいだろう」
やや湿っぽい話をしながらも……ナビがとうとう、目的地へのガイドを完了したと告げてくる。そうしてたどり着いたのは繁華街からやや外れた、閑静な住宅街の一角に佇むマンション。真田曰く、上林はあろうことか……聞き込み調査の会場として、自宅を指定してきたらしい。
「地下駐車場に車を停めていいそうだ。そこからエレベーターで上がれば、そんなに目立たないだろうとも言っていたな」
「随分と周到ですね。もしかして、クロユリを同伴させたのも……」
「あぁ、彼女の意向だ。もしかして、心配か?」
「いいえ? むしろ、好都合です。……クロユリは賢い子です。おそらく、犯人の声は覚えているものと思われます。宗一郎氏を殺した相手だった場合は、すぐさま警戒する事でしょう。もちろん、クロユリの警戒心で犯人を特定するなんて無謀なことは考えていませんが。……犬は本当に、賢いんですよ。それこそ……憎たらしい相手の声は、絶対に忘れない程に」
「……そう、だったな。すまん、辛い事を思い出させたか」
いいえ、大丈夫です……と、気丈に返事をしつつも。犬同伴の捜査ともなれば、イヤでも彼女の事を思い出してしまう。彼が鑑識課に配属されていた時には、頼れる相棒が必ず一緒だった。
(……本当に、彼女は優秀だった。俺には勿体ないくらいに……)
しかし……その頼れる相棒は、3年前に殉職している。犬塚にとって最高の相棒であり、命の恩人にもなった勇敢なかつてのパートナー、その名はリッツ号。彼女は犬塚と一緒に、とある事件の犯人を突き止める快挙を成し遂げたが。追い詰められ、自暴自棄で暴れ回る犯人をすぐに取り押さえることができなかった。そして……最後の最後に犬塚に振りかざされた凶刃を、リッツ号がその身を呈して防いだのだ。
そうしてリッツ号の活躍もあり、結果として犯人を取り押さえる事には成功したが。……代償はあまりに大きい。何せ……リッツ号はそのまま息を引き取り、2度と犬塚の隣には帰ってこなかったのだから。